旧作ヤマト考察協会

第一作から完結編まで、旧作宇宙戦艦ヤマトを出来る範囲で現実的に考察するブログです。

はじめに(ご挨拶)

 

 はじめまして、〈ヤマト2〉原理主義者な管理人です。
 このブログは各所において以前よりご都合主義だの何だの散々な言われよう、2199の登場で一層あげつらわれている旧作ヤマトを、一度立ち止まって見返し――できれば何とか合理的な説明を付けていくブログです。


 まず、このブログを始めるにあたって、長ーい前説がありますのでどうがご辛抱ください。重要といえば重要だし、そうでもないといえばそうでもない――スタンスのお話です。

 

 


はじめに


 物事には〈真実〉と〈事実〉と〈妥当な見解〉あるいは〈真相〉の3つの見方があります。似たような言葉ですが、全て性格が異なり使い方によってはその信用度が大きく貶められることもあるのです。
 さて、
 このうち、最も確かに見えて、実は最もあやふやであるのが〈真実〉であると、私は考えます。


 〈真実〉というのは――噛みつくわけでは無いのですが、実は一つではないのです。それこそ無数にあり

 ≪当該事項を知った人間の数×当該事項を頭に浮かべた時=〈真実〉の数≫

 なのです。その理由は残念ながら、〈真実〉は〈事実〉を受け取った人間が抱く見解や思い入れを加えて極めて不正確で極めて一面的な見方でしかありません。同じ〈事実〉事実だとしても、それを受け取る側の立場によって良いようにも悪いようにも表現できるからです。
 例えば、“ある〈事実〉”を“その〈事実〉で不利になる人間”が見解を提示した場合、当然否定したり〈事実〉の意味合いを過小評価したりするでしょう。反対に、“その〈事実〉で利益を得る人間”が見解を示した場合は〈事実〉をゆるぎないものとしてあるいは重大なものであると過大評価するでしょう。完全なる“外野”からすればそんな〈事実〉などどうでもよく、夜ご飯であるとか、贔屓にしている俳優や声優の出演情報の方がよっぽど重大な情報と判断するでしょう。

 “ある〈事実〉”に対する〈真実〉は――

 い、肯定的なモノ
 ろ、否定的なモノ
 は、どうでもいい

 という3つの〈真実〉に大別できます。さらにここから“ある〈事実〉”で影響を受ける人間に対して――

 1、不利益側の信奉者or利益側の信者
 2、不利益側のアンチor利益側のアンチ
 3、単純に事実を知りたい人
 4、単純に名を上げたい人
 5、不利益側の失脚で利益を得る者or利益側の失脚で利益を得る者

 に細分化できます。信奉者にとってはどんな〈真実〉も、それが妥当性を欠いたとしても全てが肯定的なモノになるでしょう。アンチにとってはどんな〈真実〉も、妥当性を欠いたとしても全て否定的なモノになるでしょう。どうでもいいと思っている人には多少感情が動いたとしても、結局はどうでもいいモノ以上にはならないのです。

 

 


真実とは


 燃えることを覚悟で例を挙げると―― 
 2019年6月21日の「私はめったに激怒しない」との首相の答弁や、
 2019年6月26日の「憲法の議論すら行われない姿勢」との首相の記者会見。

 首相にとっての〈真実〉は、言葉の通りなのでしょう。人間の感情は究極、自分にしかわからない事であるのだから、激怒しているかは自分で判断して非難されるいわれはありません。憲法改正に政治生命をかける身にとっては、憲法審査会をいたずらに遅滞させているように見える野党の姿勢が我慢ならないのも当然。多分首相は、素直にそう思っていらっしゃるのではないでしょうか。
 同じく――いわゆる安倍シンパの〈真実〉は、
【謙虚な首相は謙遜しておられるのだ〈真実〉は、首相は常に沈着冷静な国会議員の鑑であり答弁の名手。いかに首相の神懸かり的外交も憲法9条があってはままならない。だからこそ、改正する必要が有り、首相がかじを取る内閣や自民党ならば緊急事態条項にある大権掌握は、責任を一手に引き受ける決意であり感謝こそすれ恐れるべきではない】
といったところでしょう。激怒するしないは本人や、周りが勝手に抱く印象の問題だからとやかく言うべきではなく、後者は――目指す国の形の問題ですから答えは人それぞれでしょう。少なくともシンパは首相の指針こそが国の明るい未来、そう確信しているのでしょう。

 一方打って変わって、野党や反安倍にとっての〈真実〉は
【首相は簡単に激怒する外交・内政どころか国会議員として不適格。独裁者になろうとしているような人間の発議など議論に値せず、議論に顔を出せば首相に憲法改正にあたって審査会を開いたというパフォーマンスに加担する事になり、改悪に寄与する事になる審査会参加は見送って当然。むしろ見送らない事こそが民意に反する事】
といったところでしょう。架空請求にうっかり応じて債務が現実のものとなるのをシカトして避けるのと同じような感覚で、審査会に出ないという判断を下した、という事でしょう。その気持ちというか、考え方は理解できなくもない。空転=税金と時間の無駄をしている事には違いはありませんが。

 正直どうでもいい人や、もう政治に何の期待も抱かない人間の〈真実〉は
【とっちゃん坊や同士の下らん喧嘩。以上】
としか見れないでしょうね。

 


 じゃあ、お前はどの立場なんだと聞かれそうなのでちゃんと立場を表明しますと、私にとっての首相の発言に対しての〈真実〉は
 【激怒はしないだろうけど、すぐにムキになるよね。フッと堰を切ったようにオーバーモーションでしかも、口が追い付かないほどに早口でまくしたてて。時には今まで下品だとして非難していた野党と似たような言い回しを使ってみたり。それで毎回失言して野党の追及力の無さに救われる。わざわざ悪夢の民主党政権と同じかより下を目指していくスタイル。
 憲法改正の自民草案はネットに流れたモノを見る限り、憲法9条以外の条文が怪しい。ざっくり言って主権者を内閣に置き換えた上に大権を強化した大日本帝国憲法の劣化版以上のモノではない。これでは帝国憲法の方がよっぽど民主的で、野党の言う通り議論に値しない草案。しかも、“肝心”な憲法9条は首相自身の働きで改正しなくてもすでに、自衛隊を海外派遣できるし集団的自衛権も行使できるし空母も持てる段階にある。憲法を改正する理由や大義が全くなくなってしまったといえる。
 だいたい、7年も政権運営をして民主党よりマシ以外の取り柄がないというのも、比較対象が過去の自民党政権でない点もお粗末。
 こんな極めてレベルの低い政権でも生き永らえさせるほどに、民主党政権は日本国民のトラウマになっているのだから野党議員やっている人たちは本気で反省してほしい】
 といったところです。もう一つついでに言わせてもらえれば、
【四六時中明治維新だ何だと叫ぶが――明治維新は日本を二分した革命で地元以外でいい気になってしゃべって言い話題ではない。気分悪い。旧幕府軍東武帝を立てた事実を教科書的に隠蔽され、前時代の亡霊として新政府の足を引っ張ったような教科書内容が多い。だが、方向性は旧幕府も新政府も違いはなくただ、誰が中枢にいるべきかを問題としただけ。明治維新は無血革命ではなく暴力革命であり、それを声高に肯定するというのは政府への暴力革命を煽っているようなもので、普通は恥ずかしくて恐ろしくてできないはず。まして散々引っ掻き回して五輪のダシにした福島に参院選第一声なんておこがましい。恥を知りなさい】

 

 ここまで読んで「アベの手先め!」と激怒なさるなら、それはそれでその方にとって私はアベシンパというのが〈真実〉という事になるのでしょう。
 反対に「安倍首相の政策にケツを付けるなんて売国奴に違いない! 貴様ァ!」と息巻くのでしたら、それはそれでその方にとって私は野党の手先というのが〈真実〉となるのでしょう。あるいは「言うのは簡単だよね。で、君は出来るのかい?」と思うのでしたら、それはそれでその方にとって私は無責任男というのが〈真実〉という事になるのでしょう。
 あるいは、某副監督が政権よりだから反対側に立っているのかな、と思われるかもしれませんが、私が意図していなくてもそう受け取られたのならばそれがその方にとっての〈真実〉です。

 (多分、私の立ち位置は“無責任”というのが妥当な所でしょう。ただ反論させてもらえるならば、反論の代わりにウィンストン・チャーチルが言ったとされる原典不明の言葉を贈ります「私はタマゴを生んだことは一度もありませんが、タマゴが腐っているかどうかは、わかります」)

 

 


事実とは


 一方、〈事実〉はほとんどの場合においてたった一つと確言できるでしょう。
 無論、うっかり記憶違いをしていたり誤認をしたりする可能性はありますし、意図的な隠蔽や歪曲が行われることも多々あります。しかし、科学的な検証を行えば余程の事がない限り事実は確定できますし、過去の事でも複数の文書を解読したり科学と組み合わせて検証すれば事実をおおむね確定できると言えます。

シブヤン海海戦で沈んだ戦艦武蔵は一体どこにいるのか、という論争が例に出せるでしょう。
 副長の証言や駆逐艦清霜の記録、地元漁師の証言や古賀繁一氏が集めたの生存者からの聴取などおおむね4つの沈没地点予想がなされていました。つまり、この時点で確実な事実は戦艦武蔵シブヤン海のどこかに沈んだ】という事だけでした。裏を返せば、残念ながら武蔵は沈没した、という事のみは確実な事実であるという事です。
 状況が変わったのは2015年、あの有名なポール・アレン氏が情熱をもって探査した結果、シブヤン海のおおむね中央に沈没していることが確認された。当然、寸分たがわぬ的中など出来るはずもないので、多少の誤差は無視するとして、これで誰の予想が一番事実に近いかが判明しました。また、従来写真などによって推定されていたものが、少なくともレイテ沖海戦時においては幾らか変更が加えられていたりしていたという事も判明しました。

 これは、現物を確認したことによって武蔵沈没直前の状態や沈没後の状態を確定した、いわば完全な〈事実〉の発見でした。これが、〈事実〉という別の選択肢の無い唯一のものであると言えるのではないでしょうか。
 

 

 

妥当な見解、あるいは真相


 では、〈妥当な見解〉が何かといえば、それは〈真実〉と〈事実〉の折衷案であると言えるでしょう。
 〈事実〉をベースとして、それぞれの〈真実〉の中からどの立場の人間も見解が一致する部分や、容認できる程度の見解を積み重ねる事で、多角的に見て〈事実〉と異なる事のない範囲でその影響を評価するのが〈妥当な見解〉であると私は考えます。
 〈事実〉一つだけでは意味がなく、物事には理解があって初めて人間に資するものになります。〈真実〉やそれを超越した〈妥当な見解〉が加えられることによってはじめて、単なる出来事以上の意味を〈事実〉は持つのです。
 例えばそれが普墺戦争・リッサ沖海戦という〈事実〉を取り上げるのであれば、

オーストリア艦隊は全力を投入し、果敢かつ組織的に攻撃を敢行。イタリア艦隊は装甲艦のみを投入し、果敢な攻撃ではあったものの連携はほとんどとれておらず、結果オーストリア艦隊の勝利】

ということ以外は何も言えません。これに〈真実〉を加えると――

 

 イタリアひいきならば
 【味方艦隊の練度不足を無視し、政治的理由のみでリッサ島占領を命じるイタリア政府とぺルサノ提督の間では軋轢が生じていた。また、数年分の各種軍用品を備蓄できる要塞と、もって数カ月程度しか蓄えられない装甲艦ではその差は歴然であり、陸戦隊の上陸を成功させられるかがリッサ島占領の鍵であったが、アルビニ提督の初歩的な指揮ミスで失敗、挙句リッサ海戦中、彼は木造艦を率いる事になったが損失を避ける為動かず、リッサ攻防戦において全くイタリア艦隊に貢献しなかった。

 イタリア艦隊のマイナス要素はアルビニ提督であり、ぺルサノ提督は開戦においてはヴァッカ少将らと同じように勇敢に戦い、果敢に衝角攻撃を加えた。戦列艦カイザーのような木造艦に対して、イタリア装甲艦群は完全に優位に立ち、装甲艦同士でも多数の命中弾を与えて大損害をオーストリア艦隊にもたらした。しかし、歴戦の闘将テゲトフ提督相手に敵わず、損失を負っただけで撤退せざるを得なかった。軍事的必要性よりも政治的必要性によって出撃を命じられたことが敗因の一つであり、次にアルビニ提督の能力不足がこれを補完してしまったのである。

 とはいえ、戦争の帰趨にリッサ海戦は全く貢献できず、ヴェネト地方はイタリアの手に渡る事になった。また、リッサ海戦の戦訓を十分にくみ取ったイタリア海軍はその後着々と力を付けていったが、反対にオーストリアはヴェネト地方の喪失や国内のパワーバランスの変化により海軍の重要性が低下し、一時は解体状態になった。確かにイタリアはリッサ海戦に負けた。しかし、リッサ海戦はオーストリアに味方しなかったのである】

 

 私のようなオーストリアひいきならば
 【オーストリアは猛将テゲトフを艦隊司令に据え、来るべく決戦に備えて艦隊全ての乗組員は練度士気ともに最高の状態を作り上げた。一方でイタリアは戦争の果実を滑り込みで獲得しようと艦隊を派遣してリッサ島を襲撃するも守備隊の頑強な抵抗により敵わず、反対に守備隊は救援であるテゲトフ艦隊の来航まで見事に同島を守り切った。

 海戦はオーストリア艦隊の突撃に開始。テゲトフ隷下の装甲艦戦隊と闘将ペッツ隷下の木造艦戦隊はそれぞれ楔形に展開して横隊を展開するイタリア艦隊に衝角攻撃を敢行した。両艦隊は互いの隊列が接触して以降はおおむね小集団ごとの砲撃・衝角戦へと移行。組織的な行動のとれないイタリア艦隊とは異なり、事前の取り決めと訓練により統率された運動を実現、相互に援護しながらの戦闘を継続した。オーストリア艦隊は旗艦マックス他、複数の艦が衝角攻撃に成功し、特に味方木造艦を援護すべく装甲艦レ・ ディ・ポルトガロに突撃を敢行したカイザーは木造艦でありながら見事に衝角攻撃に成功、これを中破に追い込んだ。

 対するイタリア艦隊は装甲艦を結集しておきながら、オーストリア艦隊に対して有効打を繰り出すことが出来ず、一方でオーストリア艦隊は壮烈な決意の元に危険な衝角攻撃と砲撃を敢行、そのプロフェッショナルさによって全ての作戦を完璧に遂行。

 海戦はオーストリア艦隊の大勝利に終わり、世界の海戦史に燦然と輝く大戦果となった。この大成功の裏には、テゲトフ提督に艦隊指揮権を全権委任したオーストリア南方軍司令テシェン公アルブレヒト殿下の慧眼があったことも忘れてはならない】

 

 と、こんな感じになります。
 私は、海戦のみに焦点を合わせて、リッサ海戦後のオーストリアの話を意図的に無視、海戦がいかにドラマチックな展開を見たかを語り、オーストリアが完勝したリッサ海戦の歴史的特異性を語りました。〈真実〉を語る為に〈事実〉のうち、都合のいいものを最大限拡大し、都合の悪いものを省きました。
 一方でイタリアに軸足を取ると、海戦の敗北をアルビニ提督に全ておっかぶせ、リッサ海戦後の両国の様相を語ってリッサ海戦からその後に論点をすり替える事でまるでイタリアが勝者であるかのように語りました。〈真実〉を語る為に〈事実〉に関係するものの、実際には含まれないものを加えました。

 同じ事実について語っているのに、取り上げる側面が変わり、形容詞の如何で内容がまるっきり変わってしまう事がご理解いただけたでしょう。
 個人ブログの記事とか自費出版の書籍ならば何の問題も無いでしょうが、内容が偏りすぎてて解釈を誘導してしまうため教科書や資料集・副読本の記述としては不適格。解釈や補足を加え過ぎて〈事実〉を覆うほどに情報が入り込んでしまい、イタリアよりの記述はイタリア支持者の〈真実〉でしかなく、オーストリアよりの記述はオーストリア支持者の〈真実〉でしかない。
 これでは中立的な記述=〈妥当な見解〉からは程遠いでしょう。どこまで行っても平行線で、偏った見方です。

 

 では、〈妥当な見解〉は何か。
 取り上げる・取り上げない事で〈事実〉の見解が左右され得る事柄を書き出すと、次の通りになります。
①人的要因:テシェン公アルブレヒトは高名な軍事戦略家であり、デンマーク艦隊を打ち破った闘将ヴィルヘルム・フォン・テゲトフや乗艦カイザーを迷わず敵艦に突撃させた猛将次席司令アントン・フォン・ペッツ男爵ら恵まれた人材がオーストリアにはあった。反対にイタリアは功を焦るリカソーリ首相に部下をいまいち統率できないプレティス海軍大臣、明らかに指揮能力の劣ったアルビニという人的不安材料がリボッティやヴァッカらまともな司令官に意外なほど闘志を燃やしたぺルサノらの奮戦を全て台無しにしてしまった。
②物資的要因:イタリア装甲艦とオーストリア装甲艦にはさほど大きな性能さはなく、装甲艦と言えども重量級の木造艦の前では無事では済まない。体当たりをするかしないかは別として、体当たりしてでも沈めるという気概が無ければ敵を圧倒できない。
③戦術・戦闘:オーストリア艦隊は初めから衝角攻撃を波動砲なみの決戦兵器として賭けており、イタリア艦隊もまた応戦した。オーストリア艦隊は艦の材質に関わらず戦力を全量投入、敵装甲艦1隻に対し味方装甲艦は1隻・木造艦ならば3隻をもってあたると事前に決定。一方でイタリア艦隊は装甲艦のみを投入・艦隊の指揮系統はぺルサノの凡ミスによって結局各戦隊にゆだねられる事になった。
 カイザーによる衝角攻撃は自身を大破・戦線離脱に追い込んだが、ペッツの目的は敵艦撃滅ではなく初めからレ・ディ・ポルトガロの進路妨害でありそれは十分達成された。艦も一定程度戦闘力を有し続け、イタリア艦隊旗艦アフォンダトーレとの戦闘を僚艦と共に互角に行った。また、リボッティの退避命令が遅れていればレ・ディ・ポルトガロはカイザーの衝角攻撃を舷側に対し直角に近い形でもろにぶつけられていた。仮にこの進路ならば艦体が歪み、浸水が起きて沈没につながる可能性が高かった事はリボッティ自身が認めている所。
④戦争帰趨:オーストリアは陸での戦闘に敗北してしまい、ヴェネト地方を維持できずまた、オーストリア帝国以上に陸軍国家なハンガリー王国が海軍の重要性を否定して予算をカットしてしまった。テゲトフやその幕僚は勝利によって政治的立場を得たが同士に妬みも買い、テゲトフ死後は複数人が一時的に失脚するという政治闘争が発生。元から低い工業力と時間的断絶によって海軍力は低下した。
⑤戦後の影響:イタリアはリッサ海戦の教訓として勝利を火砲に求めた。カイオ・ドゥイリオなどの巨砲搭載艦を次々に就役させ、一時は世界をリードするほどの海軍国家に成長。領土的にもオーストリアから接収する事に成功し、バラバラであった半島を中央集権的にまとめ上げられるだけの資金や軍事力を確保する事が出来た。
 これらをまとめると――

 【イタリアは年単位で行うべき準備を怠り、性急な作戦を立てて敗北の素因を創ってしまった。一方でオーストリアは世界最高峰の指揮官と信頼関係に結ばれた優秀なクルーに恵まれた、最強クラス一の戦闘艦隊を保有していた。両者が対決すればその結果は火を見るよりも明らかであり、当然のごとく装甲・木造の如何に関わらず全量投入したオーストリア艦隊の勝利に海戦は終わった。しかし、普墺戦争自体は大方の予想通りオーストリアの敗北で終了し、戦争の大勢を変えるには至らなかったのである。
 戦後、プロイセンと組んだイタリアはその戦果と共に、中央集権な体制によって即座に再起を図るべく計画を立てて実行して成功。反対にオーストリアは複雑な政治事情がより混迷を極め、海軍は戦果を挙げた事が足かせとなり敗戦も相まってその地位を低下・衰微してしまった。
 リッサ海戦は政治的・戦争的影響は大きくなかったものの、軍艦の設計に対しては長きにわたり影響を与え、各国海軍が巨砲をこぞって載せ、いい加減まで衝角を付け続ける要因となった。リッサ海戦の戦訓は、衝角攻撃が有効なのは当たり前だが、艦の自重と訓練が不可欠。軍艦が高速・長大化した時代においては危険以外の何物でも無い、という事である。しかし、この教訓をくみ取ったのは世界でたった二か国=イタリアとオーストリアのみであった】

 というような感じになるでしょうか。出来るだけ偏らないようにして配慮し、解釈や印象に関わる事実を一通り取り上げたつもりです。

 

 海戦の意義を取り上げた場合、戦闘内容はそこまで重要ではありません。
 戦闘内容を構成する事柄は極めて個別的な要素が強く、例えば木造艦対装甲艦の衝角攻撃は、ペッツ艦長指揮のカイザーだから、リボッティ艦長指揮のレ・ディ・ポルトガロだから発生した展開です。レ・ディ・ポルトガロの指揮官がぺルサノだったならば正面切っての対決で双方より大損害でしたでしょうし、アルビニならば多分逃げたでしょう。しかし、評価の上でそのような“もしも”を考慮する必要は薄く、単純に内容を評価するべき。そもそも論として、たった一つの戦闘の、その内容だけで戦争の帰趨が決定するというのはかなり稀な事例です。
 一つの戦闘を評価する上で重要なのは、戦争全体に占めるその戦闘の位置でありその戦闘を各国がどのように受け取ったのかという事。目をつむりたくなるような展開があっても〈事実〉であるならば戦闘との関連性を見つけ出したり、あるいは戦果を棒に振った要因であるのか拡大する要因であるのかを見極める必要が有ります。
 

まとめます


 何が言いたいかといえば、〈妥当な見解〉は述べたい事=〈真実〉や枝葉の情報を取り払い、過不足なく公平に〈事実〉をストーリーとして提供する事である。と、私は考えます。
 すごく短絡的な表現をすれば
 〈妥当な見解〉は範囲が若干広く、狭義においては教科書に載せられるような多くの専門家からコンセンサスを得たストーリー。広義においては私的な思い入れ、つまり〈真実〉を無視して〈事実〉を多角的に考察したもの、と言えるでしょう。歴史的事項についての〈妥当な見解〉は学会的な、国家・国際的な承認を得たストーリーで、我々が日ごろ目にする一般教養。政治であるとかの日々の暮らしの中での〈妥当な見解〉は複数の識者から得られた情報と自分の生活を重ね合わせる事で、結論ありきではない方法で導き出した「成功体験」や「失敗談」あるいは「不満」か「感謝」の事と言えるでしょう。
 〈事実〉は出来事そのものであり、誤認・隠蔽・歪曲・誤情報流布――ある意味どれも〈真実〉の変形――などがない限りは揺るがない唯一の確定事案です。〈事実〉や〈事実〉に直面した人間のその後の行動も、人物にフォーカスした際はそれもまた〈事実〉と勘定できるでしょう。
 もっともタチが悪いのは〈真実〉であり、一見正当に見えても対立側の状況が反映されていない一面的なもので、当人にのみ承認される〈妥当な見解〉とでも呼ぶべき不十分なものです。何故タチが悪いのか、といえば〈真実〉を述べている側はそれを本気で信じているからであり、多角的な見方をしようとしない場合が多いからです。何度も申し上げている通り、〈真実〉が一つである必要はなく、主観の入ったものですからそれぞれ違って構いません。まして「異論は認める」と宣言している場合はなおの事。問題は自身の導き出した〈真実〉を押し付け始めた場合でして――


旧作ヤマト、

全ての始まりにして崩壊の原点


 さて、このブログでは旧作ヤマトから出来るだけ様々な〈事実〉を掘り出し、ご都合主義とおっしゃる方の〈真実〉や、私が理想化しすぎた〈真実〉を妥当なラインに――多分無理でしょうが……――おろし、出来るだけ多くの方に〈妥当な見解〉であると認めていただけるような記事を投稿していきたいと思います。

 

 2199放送当時の2199派対旧作派の熾烈な論争や、2202放送当時の2202派対2199派対旧作残存勢力の三つ巴の罵り合いはファンの間で苦い記憶として刻まれていると思います。“合理的な”ストーリー展開であるとか、製作者の知識であるとかに対しての疑問が各所、各人の考えや知識に基づいて噴出。これらは作品に対する批評から非難へと変わり、それすら飛び越えて単なる口汚いの喧嘩になったのは一ファンとして反省せねばなりません。
 残念ながら私も人間ですので、旧作がボロカスに言われ続けた恨みがあるといえばあるので2199や2202に否定的な意見を述べがちです。故に「旧作をご都合主義とか言ってたくせに、そのご都合主義は許すのかよ!」とか、「監督のエゴでⅢのやつを出していいのかよ!」というようなこのブログの根幹である〈妥当な見解〉に大いに関係する部分以外については、出来るだけリメイク2作には触れない方向性で参りたいと思います。じゃないと単なる暴言ブログになってしまうと思いますので。
 

 同人誌を発行してしまうぐらいの御仁や詳しいヤマト世界の解説ブログをつづっておられる方など様々おられます。
 先達諸兄の皆さまの成果を凌駕しようなどなく、接近もできませんがその代わりにこのブログの出来るだけ独自の色を出せるような記事を上げてまいりたいと思います。つまり、各種の参考になりそうな現実のデータや出来事を組み込むことで、出来るだけご都合主義を合理主義に転化できるようにフィクションの枠をあえて取り払った考察記事を上げていきたいと思います。
 何度も言いますが、「異論は認める」というのが私の理想です。あくまで理想なので、未熟な人間である私には多分無理でしょうが。ただ、反対意見はむしろ私自身では気づけない矛盾もあるでしょう、それを認識させてくれるかもしれないものなのでどうぞご自由になさってください。
 記事中の口調も説得力を増させる目的で断定口調を主としていくつもりですが、気力が途切れたり自分でも「この説明は苦しいぞぉ~」という場合はコロッと変わったり、色々一貫しない至らない点もありますが、全力で角を突き合せるなどという事がない程度でお手柔らかにお願いします。
(こういうぬるめの事をいう奴に限って、いざとなったらやたら攻撃的になるんですよね……)

 

 なお、
 しばらく、記事の投稿傾向は我らガトランティスを主軸に据えたものとなります。

 だって私が一番好きな勢力だから。