旧作ヤマト考察協会

第一作から完結編まで、旧作宇宙戦艦ヤマトを出来る範囲で現実的に考察するブログです。

テレザートのテレサ――テレサは動かない②――

 

 


 一つ、絶対に解消しておきたい誤解というか、懸念がある。

 軍モノにありがちな危惧であり、昨今においてはコンテンツ自体を葬る可能性のある描写――テレサとセットで語られる特攻賛美。しかし、この見方が妥当かといえば微妙なラインである。

 

 

 特攻が良くないというのは私も同じ認識であるし、上から“最善の判断”などとして強制されるなどまっぴらごめんである。そんな命令を受けたくないし、仮に高官になれたとしてそんな命令など出したくはない。作戦としては愚策中の愚策だ。多分死ぬだろうという状況を前にしても飛び立とうという……その硬い意志を持った、あたら惜しい命を散らすなど――それで上げた戦果に喜べる人間の気が知れない

 大西中将のような指揮官に説得されたならば、ということもある。実際、飛び立ってもひよっこでは格闘戦などできようはずもなく、敵弾をかわすなどという事もできようはずもなく……突っ込むほか攻撃の手段がないというのも理解はできる。日本を滅ぼさず終戦に向かう為の方策というのも理解できる。

 そんな段階になる前に敗戦を認めるのが妥当だが。

 

 

 この辺りの話題において何が問題かといえば、美化であろう賛美であろう

 が、この美化・賛美という点について、何を持っての美化であるかというのが判然としない状況で判断というのは稚拙ではないか。


 さらばのラストシーンにおいて、一種の感慨を以て古代進は超巨大戦艦に突っ込んでゆく。その姿に共感することでテレサもまたそれについてゆく。

 

 確かに、この部分だけ読めば特攻賛美と言われても仕方がない……。
 加えて、確かに、プロデューサーの精神主義的な思想はもはや彼の関連書籍を読むまでもなく、ネットやらそれこそ公開当時のパンフレットにもエピソードとして存在している。また、完結編の各種描写や後年のプロデューサーの右巻きな行動を見るに、どうしても賛美に結び付く。特攻を賛美まではしていないまでも、肯定的に捉えているとみられても仕方がない。というか、当然であろう。

 

 だが反対に、キャラクターデザイン等々で大きな役割を果たした松本零士氏は、元来冒険譚の担い手でありヤマトにおいても同様であった。

 彼は設定として必要な範囲を超える軍的な描写を――特に賛美しているように見える部分を強く嫌ったというのは有名である。菊花紋章を避けたが故の艦首デザインという話もあるようで、一部右翼からはこの行動は結構評判が悪い。

 興行的にはこれらが怪我の功名的に各種の障害を取り払ったからまあ、よかったのでは。

 


 というか、このアウトライン製作者とプロデューサーの対立が表面化ないし噂として流れたのが……さらばのラストシーンが特攻賛美として捉えられる最大の要因ではないのだろうか。

 さらばとヤマト2のラストの違いは、うがってみれば単なる興行の問題だが、表面的というか心情面で見れば正直……賛美か否かという話が出てきても仕方がない。

 


 さらばのラストは、力を入れているという点において、演出的にはその通りである。
 地球防衛艦隊の目立った戦闘艦は全滅。必死に戦ったコスモタイガー隊もまた壊滅、必死の作業でせっかく復旧した各種兵装も再び破損。波動砲エネルギー充填の暇があるのかも不明。しかし超巨大戦艦は健在……残された方法は運転中の波動エンジンをぶち当てる、ヤマト自体をミサイルと化する方法以外には無い。

 この絶望的で選択肢の無い状況が前段階としてある


 この前段階で最高潮に達した感情の盛り上がりを、さらに凝った描写とBGM、言葉少なで感慨を込めたセリフ―それも名優によるセリフによって締めくくる。盛り上がらないわけはないし、美しいシーンに仕上がらないわけはない


 これを複数回見て毎回感情移入するというのも難しいが、しかし初見で全く感情移入できないというのはちょっと心が疲れているのではないだろうか。

 当り前の話として、ラストシーンをテキトーに仕上げるようなお粗末な映画など話にならない。ラストシーンで失敗するのが大抵の映画である。その点、〈さらば〉はうまくまとめた。
 


 このラストシーンにおいて、重要なやり取りがある。
 つまり、自身の特攻を示唆した古代に対し、島が退艦命令を拒否する一連のやり取りである

 戦闘力がほとんど消滅し、超巨大戦艦に対して反抗できないただの的と化したヤマト。そこから乗組員を退艦させるのは艦長としての判断として当然だろう。しかし、古代自身は艦長として退艦を拒否した。

 この手合いの事例は結構多く、カッペリーニ艦長率いる伊装甲艦〈パレストロ〉は勇壮な事例として挙げる事が出来よう。ベール艦長率いる露戦艦〈オスラビア〉、フィリップス司令・リーチ艦長の英戦艦プリンス・オブ・ウェールズ……。

 

 古代の決意を読み取った島君らは当然のごとく抗議、その命令を拒否した。が、即座に古代君は再度退艦を命令。生きるという事の意義を説いて地球への旗艦を促した。

 詳細な説明を加えるのはもう、野暮というものであろう。
 

 生きるという事に対しての肯定、大きな意義を見出した上での突入。肯定するからこそ、意義を見出したからこそ、他者を生かすための自己犠牲。それが超巨大戦艦へと突入だったという事。

 死に場所を求めて突っ込んだわけでも、自暴自棄になったわけでも、自らに続いて欲しかったわけでもない。

 

 

 無論、敵が去るかもしれない場合ならば別の選択肢があっただろう。

 例えば弩級戦艦と殴り合った前弩級戦艦スラヴァ〉の戦闘力をぎりぎりまで維持し続けたアントーノフ艦長は、艦を自沈させたが当然乗組員と共に脱出した。

 

 ただ、ヤマトにはその選択肢は……なかったといえよう。何かしなければ地球が全面降伏という緊急事態に直面しては……もはやどうしようもない……。

 

 


 そもそも論として、この時代のアニメは結構特攻描写が多かった。正確な表現をすれば自己犠牲・献身である。

 命令されてというよりも自主的な行動で、他に手段がなく、守るべきものが自らの背後に存在している状況下で、命を賭すという事。自己犠牲であるからこそ、全員でないにせよ感動ないし共感を視聴者に与えるものであった。

 

 例えば科学忍者隊

 あのアニメは数話に一回は自己犠牲回が存在する。パイプを残して爆死したへそ曲がりな爺さん、元ギャラクター戦闘員“G6号”やおっちょこちょいで情にもろいギャラクター諜報部員はその代表格といえよう。人間ばかりではない、タロウをはじめとした犬などの動物もしかりである。ある意味、宇宙草っ葉を食べてしまった芋虫の群れもその範疇に入るかもしれない。

 大体、科学忍者隊の面々自体が人類の平和の為ならば割り合い平気で自身や他のメンバーの犠牲をいとわない。

 

 他にも例はある。
 アクシズ落下の際に必死に軌道を変える為に多数の――以降の説明は詳しい人に譲る。ただ、アムロ自身が言及している通り普通のモビルスーツでは自爆しに行っているようなもので、無意味どころの話ではない。しかし、そうせざるを得ない衝動に突き動かされての行動であろうし、非難は……難しい。
(私、ロボットとかパワースーツモノってあまり見ないんです。別に人型じゃなくていいじゃんって突っ込みをしてしまって……で、ガンダムで見たことあるシーンがなぜかこれ。我ながら意味不明なめぐりあわせ)

 

 時代は随分下るが、考えようによってはラミエルが放った加粒子砲に前面に立って初号機の縦になった零号機も自己犠牲であり、かなり無謀な行動である。もしラミエルの再攻撃が予想より早かったら、あるいは若干不安の残る初号機パイロットが何かしらのミスをしでかした場合は、などかなり大きな不安定要素が残った中での行動である。結果的に成功したから拍手だが、失敗していたら虎の子を一つ失うわけであるからして、ネルフにとっては大損害と言える。

 

 

 とにかく、自己犠牲はいくらでも例を挙げることが出来る。

 遊戯王はどのシリーズにおいても常に誰かが何かしらの形で自己犠牲的行動に出るのだ。特に第1期にはマハードというファラオの僕の鑑みたいな登場人物いるし、第4期は全員サッカー状態で“お前誰だっけキャラ”まで主人公の為に勝てるわけない戦いに挑んでいった。一家総出で敵(厳密には敵では無かった)に立ち上がったキャラまでいるからこのシリーズはかなり特殊だが。

 また、1期の一部や4期等を除くラスボスも、実際はのっぴきならぬ事情で人類の敵のような形になってしまっている例もあるが、彼らも彼らなりの理由――自己犠牲でその立場に収まった利している。

 

 考えてみれば、ジョジョの奇妙な冒険も敵味方双方が自らの心に賭けたモノの為に平然と自己犠牲的行動に移っている。

 ツェペリ3代は全員誰かのために命を捧げているし、ヴァニラ・アイスなんて鬱陶しいぐらいの献身と自己犠牲。

 

 

 作品において自己犠牲的行動を織り込むのは、作品の物語的重厚さを増すためであり一つのピークを創り出すためと評すことが出来る。

 ただし、自己犠牲的行動を起こすキャラは魅力的でなければならない。行動がおおむね合理的か、心情的に理解できる範囲内でなければならない。そうでなければ感動や共感を呼び起こすことは全く不可能。時代の風を読みそこなっても極めて困難になる。

 対象となるキャラが、視聴者にとってまるで自分の友人や憧れの人の様に感情移入が出来る存在でなければ、そしてその行動が「彼だから出来る行動」と納得できなければならない。とすると、キャラやストーリーを創る人間はよっぽど気を引き締めて紡がなければならないのだ。

 

 単なるお説教的イベントや、「僕の考えた美しい世界」などというものを体現するためのイベントとして使っても何の感動も呼び起こさない。

 自己犠牲的行動は軽々に織り込んでいいイベントではないのだ。そしてまた、表面部分を見ただけであれこれと論評するのは、出て来た論評は全てまるっきり見当違いと断ずることが出来る。

 

 


 話を戻して……
 ともかく、自己犠牲と特攻はかなり異なる。

 特攻は作戦の効果を上げる為に自己犠牲の精神を利用した戦術である。強いるものであって、自ら行うものではない。特攻の何が非難されるかといえば、突っ込んだ行為ではなく、生還を前提としない攻撃を命令として下した行為であるから。しかも発令した軍部は安全地帯から一歩も出ないし、自決もしなかった。だから問題。しかも神風特別攻撃隊は構造的にはエルベ特別攻撃隊と同じだから、そりゃ連合国から見たら印象は悪い。

 

 アメリカなどでは、ヘンダーソン大佐やフレミング大尉が〈飛龍〉や〈三隈〉突っ込んでいったが、これはあくまで生還の見込みがなくなったからである。あの危なっかしいアフロディーテ作戦も無人飛行機による効率的かつ安全な爆撃を目的としたもの。

 イタリアに至ってはWWⅠもWWⅡも魚雷艇や人間魚雷による肉弾戦を敢行したが、毎度乗組員は逃げる前提。

 

 まれに命令に従っただけの隊員たちを侮辱する例もあるが、これはお門違いも甚だしく人間として難有と言わざるを得ない。軍部にしたって大西中将のような悩みに悩んで一応の決着を自身につけた人物もいる為、感情だのに基づいたコメントは差し控えるべきであろう。何度も繰り返すが、自己犠牲は自身の損害も顧みず他者の為に自らを差し出す気高い行為である。

 

 もう一度明言するが特攻と自己犠牲を分けるポイントを示すならば、その自主性にあるといえる。自己犠牲をするかしないかは本人次第であり、余人は選択肢を提示したり説得を試みることはできても、決定に介入することはできない。

 この自己犠牲を否定してしまえば、全ての英雄的と言われる行動は非難の対象になってしまう。或いは国民の自己犠牲・献身を期待した鉄の女・サッチャー首相の政策も彼女本人も彼女に同意した国民もすべて非難されるべきとなる。重要な報告を伝える為に走ったエウクレスやポール・リビアも――特に前者は命まで捧げた――その勇敢さを避難されることになるだろう。

 自己犠牲を強要するのは反則であり、強要によって行われた自己犠牲は非難されても仕方ないが、それはあくまで強要した側に向けられる非難である。

 

 


 自主性を重んじた行動=古代やテレサは自己犠牲であって特攻ではないといえよう。

  つまり――

 そもそも特攻ではない。

 

 


 では賛美しているか。 前提が一つ崩れた時点で賛美しているかどうかを検証するのもおかしな話だが続行する。

 

 賛美するという事はたたえるという事であり、後に続けと望むという事である。
 島君が別の選択肢=生き残る事を何より古代君から提示され、それを受け入れている。つまるところ、死ぬこと以外の選択肢があれば、その方が選択するに値するという描写と言えよう。

 特攻以外の選択肢を提示している時点で後に続けタイプの称賛ではないでというのが妥当な線と言えよう。

 

 彼の特攻は、冷めた目で見れば古代君の選択は、愛する雪を失った上のやけっぱちという側面が見えてくる。身もふたもない言い方だけど。

 映画に没入して賛美するとすれば、古代の雪に対する深い愛情と、地球人類の明日を背負って結局敗北したヤマト艦長としての責任の重ね合わせ。

 


 確かに、問題のある解釈をされるかもしれない行動を美しくまとめたというのは否めない。が、これが賛美と取られるのは客観的に見て過剰反応といえよう。

 

 


 私個人の話ですが
 ラストシーンが特攻賛美描写として批判されているというのは、初見から数年経って知りました。あれが特攻賛美と受け取られている事実自体を理解するのに、更に数年かかりました。

 

 初めてその文脈での文章を見た時はおどろいたなぁ~。
 だって、古代進以外の人が同じ状況に置かれるという想定や、あるいは自分が彼のような行動をするかどうかという想定を全くしていなかったから。完全なるフィクション、他人事として見ていたから。

 自分だったらどうするかを考えたならば、確かにその場合は特攻賛美に見えるかもしれないなと。正直、架空の話でそこまで没入できるかというのが、残念ながら感情不足な私には思い至らなかったんです。だから本当にびっくりしました。そういう見方もあるのだな、と。

 仮に自分を没入させたとして、あの決断はあくまで彼の人生の結果である、判断であるとして割り切っていました。感覚でいえば、〈ロミオとジュリエット〉と〈連合艦隊〉を同時に見ている気分。別ベクトルの作品ですね。だから重ね合わせて、特攻賛美という結論を導き出せませんでした。

 

 第一期から古代君を結構短絡的な人だと思ってたから見習いたいとも大して思わなかったというのも理由としてあります。私、割とコイツ嫌い。好きなアニメの主人公を嫌うというのも妙な話ですが、雪共々少なくとも初っ端からずっと出番無くて構わないと思っている。だから余計に意味が解らなかったんです。

 

 いやはや、よく政治家が失言して撤回までに時間をかけますけど、その気持ちがわかった気がしました。

 

 

 真面目に戻って――

 今まで多数述べられてきた、特攻というものに対する非難。その非難の論法についてもそもそも大きな疑問がある。


 どういうわけか特攻に関わった全員を十把一絡げにして非難するが、これは頭が悪いというか、現実が見えていないというか、性格がひねくれているというほかない。

 前にも述べたが、特攻という作戦自体については疑問に思うし、そんな状況になる前に戦争を終わらするべきだと思う。つまり、特攻で非難されるべきは飛んで行った兵士ではなく指令を出した軍部であるという事を強調すべきであるという事だ。

 

 にもかかわらず。
 時折突入していった兵士に対しての侮辱的な内容がブログなりあるいは有識者の著作などで見られるが言語道断。軍部にしても、必ずしも全員がアッパラパーであったというわけでは無く、冷徹に作戦としての効率を勘定して研究したものも居た。そういった人物に関しては慎重な考察を加えたうえで非難するなり擁護するなりをする必要が有る。本人は相当に悩み苦しんだというのが周辺の証言で分かっている。


 つまり、これらを全部ひっくるめて非難し悪として封じ込めれば全く不当な評価を何の罪もない人間にかぶせてしまう事になる。そもそも蓋をするようなことをすれば、教訓も何も引き出すことが出来ずにまた――どうせ人間なんて私を含めて大抵は愚か者なんだから――同じ間違いをくりかえすだろうに、それを未然に防ぐ手立てを失うという事になりかねない。


 事実、妙に特攻を賛美礼賛する人だって稀にいる。同じ間違いを繰り返しかねない人たちだ。彼らは聞こえのいい泣けるストーリーを押し立てて、取っ散らかった批判に対して取っ散らかった反論を加える。挙句根性論から全然、進歩してない……。


 特攻をしっかりとその実情を見て冷静に判断する事の方が、平和教育につながるのではないか。何も考えさせずに抑え込むのは簡単だ。

 しかし、それでは反発というものを生み余計な不安因子を育てる事になりかねない。

 

 


 さてヤマトの話に戻る。何度脱線する事か……
 あの描写は冷静に見れば、特攻自体賛美する対象にはなりえない。何より軍艦オタク系な人間であればあるほど、島らが艦を離れるというその決定の重さはすぐに思い至るだろう。

 つまり、戦場において離艦することは敗北であり屈辱であり、共に戦った戦友=軍艦との永遠の別れでもある。守り守られ、数多の海を駆け、数多の空を共に見た戦友との離別。この決断は、実は最期まで離れずにいる事よりもよっぽどつらいかもしれない。生き残ることよりよっぽど苦しいかもしれない。う

 やはり古代進の言葉の通り、生き残る選択の方がつらい決断なのである。

 


 古代の決断は、確かに気高いものである。人類の為の自己犠牲。

 しかし、うがった見方をすればロミオとジュリエット的な最期という若干矮小な結末にも見える。これのあたりの評価は完全に受け取り手に任されるだろう。(愛の戦士って副題の意味、今日分かったかも)

 

 


 賛美問題についてのまとめ
 さらばにおいて古代とテレサが特攻をかましたとしても、賛美しているように見える描写とは別に否定的描写が重ねられているため、この評価ないし危惧は妥当性を欠く。

 

 だた、製作者がどうも右気質だからむしろ賛美と取られてもいいと思ったかもしれない、という問題は残る。
 が、作品と製作者が完全に切り離せないものであるとしても完全に同一化して評価することは妥当であるか、考える必要がもう一つあると思う。
 と、自戒を込めて言ってみた。

 


 で、それとは別にラストが相応しかったかどうか。
 これは検討し続ける必要が有ろう。なぜなら、あのラストは整合性は取れるが、物語のラストとして別な道が無いか、丸く収まるラストもあってもいいかもしれない。


 ラストのバージョンとして、少なくとも地球側ぐらい全員生還のハッピーエンド的なラストであってもまずくはないだろうつまり、ヤマト2のラストのそれに近い。あれは、もっと慎重にラストを描く必要が有ったとは思うが、あのベースラインは仕方がないだろう
 これでシラケるなら、さらばで満足するべき。あるいは二次創作同人を作ればいい。
 

 無論、単純にラストシーンにヤマト以外の地球艦隊が存在しないというのは疑問というのであるならば話は別私も、護衛艦とかの決死の出撃があってもいいかなと思ったこともある。

 結局、彼我の戦闘力に隔絶した差がある故、テレサにお出まし願うほかないが。しかし、ヤマトだけに戦闘を任せるというのも中々にアレだと。だからラストの最大公約数的ストーリーを探求し続ける価値はあると思う。

 

 

 特攻の整合性という点で、ヤマトをはじめとした地球軍はすでにその戦闘力を失っている。あの状況ではガトランティス支配下にはいる以外に道はなく、この場合搾取されるほかない。

 ならば最後の賭けとして超巨大戦艦に突っ込むというのも、ヤマトが突っ込まずに降伏した場合の、見えている結果よりかはマシと判断できる


 テレサはどうか。故郷をガトランティスに滅ぼされ、期待をかけた宇宙の平和の為に戦ったヤマトは敗れてしまった。そして目の前で、今まさに心震えるような決意を持った青年が旅立とうとしている。

 テレサの理解あるいは認識の範囲で、ガトランティスに勝る宇宙混乱の原因はないという可能性がある。ガトランティスよりタチの悪い混沌が他にないのであれば、この目の前にある敵を打ち破らねば宇宙の平和はない。仮に、他に存在したとしてもガトランティスを滅ぼさなければ確実に宇宙の混沌を放置することになってしまう。

 場合によってはこの瞬間の他にガトランティスを倒すタイミングが無いかもしれない。だから、ヤマト共に突入した。

 

 どちらも理に適った説明と言えるのではないだろうか。

 

 

 

 最後に一つ。
 さらばのラストシーンについて、ろくな考察も論理的な推測もせずにただ、旧来の旧作はご都合主義! という固定概念のままに批判するなら……もう一度映画を見た方が良いと思う。

 なぜならそれは、その批判はうがった見方、刷り込みありきの批判であるからだ。


 むしろ、悲しいラストなんて見たくない! という感情論の方が実は論理的で冷静な批判ともいえる。だって、悲しいラストであるという見方は決して間違いではないのだから。勝って帰るのではなく、死して勝利をもぎ取る。

 これを一切の悲しみを持たずに見送るのは、極めて難しいだろう。