旧作ヤマト考察協会

第一作から完結編まで、旧作宇宙戦艦ヤマトを出来る範囲で現実的に考察するブログです。

ウラリア戦役 2作品の質的概要

  

 暗黒星団帝国戦役(長いので以下、ウラリア戦役と呼称。理由はご自分でウィキを見るなりしてください)は2つの作品にわたって描かれている。つまり〈宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち〉と〈ヤマトよ永遠に〉だ。

 両作品は性格が大きく異なりヤマト2から続く戦記物的側面の強いのが新たなる旅立ちであり、さらばのようなメッセージ性を大きく持たせたのが永遠にである

 

 

 ストーリーの流れ

 ガトランティスとの政治闘争、ヤマトとの死闘を繰り広げたデスラー総統。彼は新たなる母星を探すべく放浪の旅に出る――だが、その前に懐かしい故郷へと別れを告げるべくサレザー恒星系へと帆を進めた。しかし、そこで見たのは懐かしいガミラスではなく、何者かによって地下資源を採掘された痛々しい姿であった。これに激怒する総統。全艦隊を以て奇襲作戦開始、敵艦隊を全滅させるが……そのさなかにガミラス星も爆発してしまう。更にバランスを失ったイスカンダルをも暴走、総統はこれを追いかける。

 他方、ガトランティスとの最終決戦を生き残ったヤマトは地球へ帰還、艦の補修を進めると共に乗員の治療及び新兵の乗り組みが開始。これらが済み次第訓練公開へと出発する。

 イスカンダルに追いついた総統はスターシャに連絡を取り、脱出するように勧めるが、イスカンダル人の誇りとしてそれを拒否。同時にガミラス星で採掘をしていたあの敵艦隊が襲撃をかけてくる。一転して総統は奇襲をかけられる側になり劣勢に必死に迎撃を試みるも敵わず、最後の手段として古代との友情にかけてヤマトへイスカンダルの窮状を通信、ヤマト到来まで全艦隊でスターシャ宮殿死守を決めた――果たして、ヤマトはこれに答えてイスカンダル星へ飛来、コスモタイガー隊により敵艦載機隊は損害を受けヤマトの機銃掃射で壊滅。更にて巡洋艦隊もショックカノンと煙突ミサイルの連続攻撃でこれを粉砕。続く巨大戦艦へも波動砲を以てこれを撃滅。

 危機は去った。

 に思われたか、突如巨大要塞が出現。暗黒星団帝国と名乗る敵勢力はヤマトの戦いぶりをたたえ、10分間の猶予を以て立ち去るように要求した。しかし、それで引き下がるデスラー総統ではなく、突撃を開始。ヤマトの体制が整う間もなくの電撃戦であったが、しかし要塞ゴルバには敵わず、ついにはイスカンダルにまで被害が及ぶ。これを阻止すべく、総統は旗艦を要塞砲へ突っ込ませ、突破口を形成。ここにヤマトの波動砲を――その瞬間、スターシャは脱出を承認。したように見せかけイスカンダルを爆破。ゴルバをそのエネルギー流の中に叩き込み、全ての戦闘を集結させた。

 だが、これは物語の終わりではなく始まりに過ぎなかった。(新たなる旅立ち)

 

 

 突如として飛来した不明物体は太陽家に突入、各惑星基地を破壊しつつ地球に迫った。迎撃する手立ては地球には無く、不明物体はまんまと首都郊外に着陸。警戒網を強いてこれを包囲するが突然降下兵の奇襲を受け、降下兵の軍民問わない襲撃に手も足も出ずに地球連邦政府は降伏に追い込まれた。

 しかし、長官をはじめとした一部高官は速やかに地下に潜ってパルチザン活動を開始。ヤマトもまた出撃し、飛来した爆弾の起動を阻止すべく敵母星撃滅を誓う。

 ヤマト出撃によって占領に現れた艦隊、或いはゴルバ型浮遊要塞群などがこれを迎え撃つもヤマトは持ち前の胆力でこれを迎撃、見事突破する。そしてたどり着いた敵母星が地球――なはずもなく単なる芝居。これを途中で見破り、反撃に移る。そのさなかに予想外のいくつかの損害が発生、これにひるむことなくヤマトは攻撃を続行、ついには敵母星の撃滅に成功した。ほとんど同時刻、地球でもパルチザンが占領軍の高官を撃破、更に爆弾の解体にも成功。

 ヤマトや地球防衛軍の活躍により地球人類は再び救われた。(ヤマトよ永遠に)

 

 


 新たな旅立ちの性格
 一つ大きいのはデスラー総統の戦記の一場面という側面である。ヤマトへの遺恨の消滅、ガトランティスからの離脱、部下の再集結とい過程を経て新たなる母星を探す放浪の旅。その中で、思い出の地ガミラスへの一時的な帰還のさなかに起きたエピソードだ。
 もう一つはヤマトの新乗組員の登場。これからのヤマト作品において重きをなす多数のクルーを古参クルーと視聴者の双方にお披露目する場。当然のことながら、これもヤマトの戦史の中の一場面としての側面である。
 つまるところ、ヤマトと地球、デスラー総統とガミラスの歴史の中の一場面であるという事だ。

 

 永遠に の性格
 永遠にに関しては、さらばに近い機械文明へのアンチテーゼの側面が非常に強い。機械文明を促進し、結果生物としての側面を頭部以外ほとんど失ってしまった暗黒星団帝国。結局何の役にも立たなかった無人艦隊に頼り、要撃用のコスモタイガー隊がスクランブルすらできず地上で破壊される憂き目を見た。結果、防衛司令部要員と空間騎兵隊が合流したレジスタンス(パルチザン)や、ヤマトといった機械の力に加えて人間の力に大きくその能力を頼った戦力が立ち上がり、暗黒星団帝国に対して抵抗をはじめた。
 暗黒星団帝国のそもそもの地球侵攻の目的は人間の胴体。この時点で暗黒星団帝国の科学文明や生物としての限界を迎え、結果人間に回帰しようという――機械文明の末路を明確に描いた。同時に地球の一ミリたりとも全く頼りにならなかった無人艦隊に資源と期待をかけた滑稽さや無力さによってダメ押しに近い形で機械文明に頼る事の人間としての情けなさを鮮明化した。
 機械文明へのアンチテーゼであり、それにあこがれることへの警鐘。これがこの作品の肝といっても過言ではないだろう。

 


 機械文明へのアンチテーゼ
 なぜ、機械文明へのアンチテーゼにこだわるのか。製作者本人ではないからあまり理解はできないが――一つ、現代地球の過剰なまでの機械への依存があげられるだろう。


 人間に求められる能力――

 欧米流の暗記科目の暗記事項はすべてスマホで調べて設問には読解力や思考力で答えるという方法は、日本式の兎に角覚える雑学クイズなやり方よりよっぽど学習効果は高いだろう。だが、ややもすれば覚えようとすることすら否定しかねないような考え方に傾きつつある風潮はまずいだろう……挙句、思考力の鍛え方が不十分でその測り方すら不十分で、そんな段階でこの方式を取り入れたら大惨事なのは火を見るより明らか。

 機械文明の発達により思考の自由度は広がったが、だからといって極少数を除けば人類は必ずしもクリエイティブになったわけではない。


 人間の生産現場における存在意義――

 工場の工程をなんでも機械に頼った場合、巨大な自家発電装置がなければ災害時に活動できず、移動式の組み立てマシーンでもなければ水害では一発水没あるいは火事でまる焼け。人間の場合は、まともな避難計画があれば工場という箱はダメでも人員は無事が確保可能。そもそも、人件費をカットして製品を安くしても――雇用者数が減ってしまっては金が回らないのだから売り上げは伸びないし、可処分所得が増えなければこれも当然、売り上げが伸びない遠因。

 社会の発展にはある程度の人間の数が必要なのである。機械と人間の分量について未だ答えは出ていない。しかし、クリエイティブな人ほど人間の数を減らしたがる。

 

 機械は人間より信頼できるのか――
 航空機において、機械の誤作動で墜落する事例は結構ある。ボーイング737 MAX 8に至ってはそのシステムを制御するソフト自体に不具合があったおかげで2機が墜落してしまった。イースタン航空401便墜落事故やアシアナ航空214便着陸失敗事故のように、凡ミスやらかすような注意散漫なパイロットや未熟者でも飛ばせるまで高度に進化した飛行機という存在そのもの=自動操縦装置に対するパイロットと会社の過信や過度の依存。これのおかげで何度も大事故一歩手前が時たま発生する。パイロット自体の質が若干ずつ低下し始めているといえよう。ある意味、飲酒検査に引っかかるパイロットが続出したのも、この高度な自動操縦装置という安心材料よるモラル低下とみて、そう外れた推測ではないだろう。

 機械を信用するのは構わないが、頼り切った結果として機械の性能を上回る負担が機械にもたらされる。同時に人間の能力も損なわれる。最も簡単なのは人間がしっかりと機械と共同作業を、或いはイニシアティブを握ると意識する事。しかし一方で、人間の意思は信頼のおけない脆弱な存在と認識されかねない。


 機械は発達する。

 機械を発達させたその開発者やそれを支えた人物は同じく発達した人物であり、機械と共に発展を遂げることも容易だろう。だが、発達した機械を使う人間は私をはじめとして凡人である。凡人が超優秀な機械を相手にして、必ずしもそれを使えるとは限らない。そもそもパソコンだののIT機器もハードを設計出来て運用出来て初めて使いこなしたといえる。ソフトをガチャガチャやってもそれは使いこなしたとは言えないのだ。むしろ、機械に使われているといえる。そうして、段々と人間がその能力を衰退させてしまう

 これらの悪影響は人間のモラルや矜持によってのみ、回避が可能だが、それが出来るかといえば……。

 

 人類の衰退
 トランスヒューマニズムというものは科学や技術と人間そのものの融合によって人間の負の側面を全て取っ払おうというものである。負の側面とはつまり、痛みや老化であるとか死の事。別に顔でも構わないが、話のレベルが途端に下がる為除外。トランスヒューマニズムはその萌芽を古代エジプトの義指に求めることが出来る。また、キリスト教でかつてメガネが使用を神(のもたらしたもう自然の摂理)に逆らう行為として忌避したのはトランスヒューマニズムの反対の立場を取った為といえる。
 物凄く冷たい言い方をすれば、トランスヒューマニズムは一種の逃避。なにせ、みんなが経験する老化を否定し、それから逃れようという発想。無論、人間の進歩の為に技術を使うべきという考え方は否定する必要はない。人間がもたらした災厄をカバーできる技術も含むとあらば、それは一種の人間としての責任ともいえる。そもそも人間の生活を向上させるために今まで人間は科学や機械文明を発達させてきたのである。ただ、その限度をどこに設定するべきかという話だ。人間と機械が完全融合して一体何の意味があるのか。例えば人間の生産プラントが複数あったとしても、エネルギー供給をしくじれば、そのプラントの損失がそのまま人口のマイナスになる。胚の保管も、失敗すれば――なまじ一つ一つが小さいから何千という数を一か所に集めておける故に、一か所失われれば大損害。だったら、凄く原始的だが人間自身がこれらを単体で所有し必要に応じて……という方がよっぽどリスクヘッジとして確か。
 種としての能力を保持しないままの、それを損なうような技術の融合など必要であろうか。考え方的には、ある意味……ヒトという生物の本質や能力を失った場合、その人類は野生を取っ払われた家畜に近い存在となってしまうのではないだろうか。

 

 そんな危惧を持って製作されたのではないのか、そんな雰囲気をウラリア戦役を描いた2作品から私は感じ取った。

 


 作品の価値。
 ヤマト作品に置いて、人間の力や可能性を無視する形で機械に頼った文明や社会は基本的にディストピアとして描かれる。19世紀後半から20世紀中盤にかけて多数描かれてきたディストピア文学のアニメ版、というのがヤマト作品のベースにあるだろう。これを嫌うとか否定するとかは完全に視聴者側の勝手。私は正直、「文明回帰論者かよ」と突っ込んでしまった。
 それはそれ、メッセージはこっちに伝わった。言いたいことは判るし、一部とはいえ同意する面もある。


 ただ――作品としての価値が高いかといえば微妙。

 単純に、大して必要のないシーンをぶっ込む割に、前のカットとつながりをおろそかにする雑編集。重箱の隅をつつかねば整合性のとれない、唖然としてしまうテキトーな戦闘や展開。挙句登場人物の唐突なフェードアウトというのはいただけない。ちゃんとした、後世でも見返してもらえるような作品として完成させようとしているのか、正直疑問

 よって、同作品を鑑賞するにあたっては、十分にご注意ください。外観よりも中身を、メッセージを中心に受け取ってください。