旧作ヤマト考察協会

第一作から完結編まで、旧作宇宙戦艦ヤマトを出来る範囲で現実的に考察するブログです。

さらば宇宙戦艦ヤマト―読み解く平和へのメッセージ

さらば宇宙戦艦ヤマト/ヤマト2
ヤマト史上最も熱い作品……

 

 

 〈さらば宇宙戦艦ヤマト―愛の戦士たち―〉はヤマト作品の中で最初にファンが分裂するきっかけであり、一種伝説となった源となる作品である。

 ストーリーの合理性であるとか、登場勢力に考察を加える前に、この作品自体の内容をざっくりと見ていきたい。(長文注意‼)

 

 

 ヤマト“最期”の航海


 〈さらば宇宙戦艦ヤマト―愛の戦士たち―〉は1978年8月5日に封切られたアニメ映画である。前作〈宇宙戦艦ヤマト〉の続編であり、地球を滅亡の危機から救った約1年後から物語は始める。
 一方、〈ヤマト2〉は1978年10月14日から1979年4月7日にかけて放映された〈さらば宇宙戦艦ヤマト―愛の戦士たち―〉をベースにオリジナルエピソードを多数挿入したテレビシリーズである。
(制作会社や制作チームに関しての情報は自分で調べて下さい。その方が早いし、いろんなエピソードに触れられると思います)

 


 この作品のテーマは文字通り、愛。
これは西崎プロデューサーも明言している事であり、実際に劇中に多数表現されている。愛といっても特定の方向性を持つ愛だけではなく、宇宙の愛や人類愛といった博愛、雪と古代の恋愛あるいは親しい者たちへの慈愛。ギリシャ語でいうところの――
   
 アガペー=無償の愛、神よりの不朽・無限の愛
 ストルゲー=家族愛、本能的な血族愛
 フィリア=友への愛、友愛

 

 である。若干皮肉を込めてこれに自己愛を加えてもいいかもしれない。
 ヤマトクルー、テレサ、防衛軍長官と参謀、デスラー総統とタラン、皮肉を込めて防衛会議の皆さんと大統領、サーベラー総参謀長。みな愛のために戦ったと言えよう。深堀すれば、アンドロメダ艦長だってバルゼーだってゴーランドだって部下や艦隊に対する一種の愛情はあっただろうし家庭人として見たならば、もし家庭人としての側面があるのならば、彼らは家族に対してストルゲーを抱いていただろう。場合によっては普遍的に地球ならば人類や自然、ガトランティスならばそのイデオロギーアガペーを抱いていたとしてもおかしくはない。

 


 対立軸としては破壊・征服があろう。あるいは対立軸ではなく表裏――少なくとも、対になる概念。

 

 全宇宙の征服=ズォーダー大帝の野望
 宿敵ヤマトの破壊=デスラー総統の悲願
 地球連邦の宇宙進出=征服国家の萌芽
 (ヤマト2において、デスラー総統放逐=サーベラーの嫉妬)

 これらがあげられるだろう。


 大帝の野望大帝星ガトランティスの国是、イデオロギーである全宇宙の征服は先祖の意志であり、ズォーダー5世大帝(数字はヤマト2で明言)以前の最低限5世代は遡って同様の遠征を繰り返していたと考えても差し支えはない。あの局地戦の敗北など完全無視して艦隊を大量投入し続ける、そのいわば悪手を容認できる国家体制の構築は数百年単位で人口調整や軍備計画・侵攻計画計画を立てねば実現できないだろう。という事は、気の遠くなるほど昔から征服の為に宇宙を周回し続けていたという可能性がある。破壊の歴史である。


 総統の悲願宿敵ヤマトの破壊はデスラー総統の悲願でありこれは当然破壊行為の一つだ。ヤマトは彼にとって祖国ガミラスを破壊した張本人であり、ガミラス人民を全て無国籍に追いやった悪魔の艦だ。地球とガミラスの間に休戦なりの状態がない以上、【ヤマト出撃→戦闘→ガミラス再興を阻止される】というようなスキーマが総統の中で構築されているかもしれない為、ヤマト破壊が一つの通過儀礼となっていると言えるかもしれない。言い換えれば、彼の軍歴の中で唯一大敗北を喫した相手を沈める事をけじめとしているとも考えられる。この強力な執念を持った男の執念を大帝は気に入ったのだから、サーベラーとしてはいい気分はしなかっただろう。


 地球連邦の宇宙進出地球は平和にかこつけて太陽系圏外への進出をもくろんでいる事は、アンドロメダ進宙式での大統領の演説を見れば間違いないだろう。無論、太陽系圏外の地域を影響圏において、太陽系“本土”を侵略から守るというのも当然考えられる防衛プロットであろう。しかし、宇宙の平和を守ると、介入姿勢を明言したのは……身の程知らずでしかも大義を押し立てての拡大方針は、その大義が保たれるのであれば問題はないが、普通に考えて無理。ガトランティスの襲撃にあわず、拡大政策を続けていれば太陽系を軸足にした第二のガトランティスになっていた可能性もある。

 

破壊と愛と無関心

 

 破壊や征服を一過性に行う事は簡単だが、継続して完成させるには労力が居る。それ以前に、破壊や征服の準備には金も時間もかかる。下手な愛より、情熱が必要で、しかも根気が必要。
 通常言われる愛は破壊ではなく、保護や補修に近い傾向が強い。仮に破壊の方向性を取ったとしても、相手はある程度納得していなければ愛としては伝わらない。そもそも愛は一面的一方通行な傾向が極めて強く、相互的な関係にはなりにくい。だって人間もその他の動物も皆、個々の存在であって思念集合体とか共通意識領域があるわけでは無いでしょう? 人類補完計画でも無ければ“シャーディー教”でもないわけだし(たとえが通じなかったらごめんなさい)。


 一方で破壊は大抵の場合、報復を伴う。ベルサイユ条約はドイツから国名以外の全ての希望を徹底的に取り上げ、それがWWⅡに繋がりその終盤にはV1やV2、V3は報復兵器と呼称されて対英戦に投入された。まさに報復である(ベルサイユ条約の苦境を差っ引いても、そもそも戦争を勃発させたのはナチス側。報復するは英国にあり、が普通の感覚である)。宗教戦争が尾を引くのは報復・復讐が繰り返されて、もはや教義から外れている場合もある。誰が主導権を持ち、誰がどんな感情の元に行動を起こしたとして、ただひたすら、受けた破壊と同等の破壊を相手にもたらす、その繰り返しとなる。ある意味普通の愛よりも相互での感情の行き来がスムーズな愛の形と言えるかもしれない。これを愛と呼べるのか否か、という問題は別にして。


 もう一つ、見過ごせないのが無関心だ。マザー・テレサ曰く、愛の対義語である。確かに無関心は愛の対義語といえよう。
 文化や芸術は金がかかる反面その技術継承や歴史的意義の重要性を理解されずに公的資金投入をはばかられる。これは文化という国家や民族を構成する重大要素への無関心から来る。専門家とは言えども、専門家ら少しずれれば見解が妥当性を欠きうるし、本人にとって重要な事が依頼を受けて金を受け取ったことであればもう、オハナシにならない。技術や技術者を保護することは国家繁栄に寄与するが、イメージがわかず後手後手の対策になったり、農業は端っから国土強靭化の手法として収益自体を度返ししている国も少なくないが、貿易収支にばかり目が行く人にはその重要性は全く伝わらない。無関心は時には自身をも巻き込む危険性があろう。例えば選挙――深くはいわんや。昔は尊敬されていた国会議員が今では結構見下されがちな職業になっているのも、反対に国民の声や実情に対する無関心が招いたともいえるが。
 


 翻ってヤマト
 物質文明の復活によりガミラス戦役の傷跡を殆ど回復した地球。その浮かれよう、あまつさえ遠洋航海型の戦艦(後日考察記事を上げるつもりです)であるアンドロメダの完成という、それまでの苦境の反動極まれりといった様子。挙句なぜか閑職風な待遇を受けるヤマトクルーという、全く持って緩み切り、宇宙にはたくさんの脅威があるという事に対する無関心は驚愕。現実にもあり得る事だから人の事は言えないが。
 また、宇宙の端で起きている異変に対して、宇宙の平和を守るリーダーになるとかのたまっておきながら全く関心のない防衛会議。“愛の鉄人”古代君が叫びたくなったのも無理はない。
 宇宙全体の為に戦う勇士が他にいなかったのか。他の勢力がテレザートに到達できなかったという可能性もあるが、サーベラーがゴーランドに警告を発して初めてちゃんとした警戒態勢を敷いたことから考察できるのが、ヤマト以外の宇宙戦艦はテレザートへ向かわなかった可能性がある。仮に。危険性に気が付いたとしても、ヤマトクルーのように明らかな軍法違反を犯してまでの行動には映らなかったのだろう。正当な行動だが、しかしガトランティスを前にした場合は若干様相が異なり。酷な言い方だがこれもある意味無関心に勘定できるだろう。

 彼我共に愛ゆえの行動と、愛とは全く異なる無関心が複雑に絡み合い、それが個々人の行動の動機になってゆく。
 地球防衛軍は地球を守るため。
 ガトランティスは先祖の意志を果たすため。
 ヤマトは宇宙の愛をまもるため。
 それぞれが目的をもって、それぞれの愛のために戦ったのが〈さらば宇宙戦艦ヤマト―愛の戦士たち―〉〈ヤマト2〉両作品であり、それが最大のメッセージである。

 

 

物質文明へのアンチテーゼ


 個別に章立てるべきであったが、うっかり愛に絡めてしまったので短く、物質文明に対するアンチテーゼについて述べる。
 復興した地球は機械や科学を是として、全てを判断する。故に人間の内省であるとか自然との共存であるとかは優先度が低く、ヤマトの勝利にはコンピューターによる演算ではなく人間の発想力がカギであったが、それをアンドロメダの機械化によって成し遂げようという、だいぶ方向性の怪しい考え方が支配的になっている。

 昨今、高齢者ドライバーによる重大事故が続発しているが、今後人口比的に言って数的には減るだろうが同様の事故は決して無くならないと私は予想する。
 理由は簡単で、車の運転を出来るだけ簡単にしようという発展の方向性である以上、本来運転に適さない人間が運転に参加できてしまう環境があるからだ。別に私が言い始めた事ではなく、著名人でいえば所ジョージ氏がバカに合わせて車を開発した事が要因の一つであると述べている。車の運転は集中力と注意力という一面では相反する能力を投入しなければならない。私のような移り気で感覚が雑なバカを運転から遠ざけるには本人に自制してもらうか運転プロセスを複雑化する以外にないのである。
 航空機の場合は、職業ドライバーと同じく高い操縦能力がパイロットには要求される。こちらは車以上に人間が非力にならざるを得ないため、機械のサポートが絶対であるが、機械におんぶに抱っこされていてはならない。これは事故調査委員を務めた様々な人物の著作であるとかインタビューで明かされていることで、機械と人間は相互に補完する関係でなければならないのである。

 

 そういう意味ではヤマトは完璧に近い。
 ヤマトという艦のシステムとアナライザーという機械系の補助、科学工学の天才真田技師長やガッツで乗り切る徳川機関長や佐渡船医といった人間の能力。これらを見事に組み合わせて理想に近い人間と機械の関係を構築している。一方でアンドロメダはクルーが未熟である事を差っ引いたとしても〈さらば〉では艦長の作戦プロット、〈ヤマト2〉では土方総司令の作戦プロット意外に人間の力が発揮される部分はなかった。こちらは人間と機械の理想的な関係とは程遠いといえよう。

 現代で例えるならば旅客機とパイロットの関係に近い。
 機械が常に人間より優秀である。それば別に大した〈事実〉でも〈真実〉でも〈妥当な見解〉でもない。機械の見えない範囲を人間が補い、人間が判断できない部分を機会が補う、それでこそ最大最良の能力が発揮できるのだ。


 つまり、

 問題は、機械を如何に使うかである。

 機械を過信して機械を想定以外の場面で利用してしまうのは人間だし、機械そのものに不備があってもそれを見落とすのも人間である。反対に、機械が正しくとも無視してしまうのが人間である。この、両者をうまく協調させてこそ安心の創出・発展の加速を生み出せるのだが、機械側の発達ばかりを見てしまっては人間は退化をしかねない。より、高度な機械を求めるだけで何の内省もしない、いわば災いの種となり下がってしまうかもしれない。
 人間の技術や機械に対する崇拝や異常なまでの過信を地球連邦やガトランティスに投影し、それに対抗する人間力の発展とそれをサポートする機械という本来の技術発展への道をヤマトに投影してアンチテーゼとした。それが、深く〈さらば〉や〈ヤマト2〉を読み解くことで見える。

(個人的には百条委員会に出席して日本の科学なら~と、のたまった元都知事を思い出す。あの人ヤマト復活編の原案作っておきながら、一体何をヤマトシリーズから見出したのか、はなはだ疑問)

 ある意味、左派と言うか平和思想的な作家の作品は軍隊モノであったとして、それが勇壮で美しく活躍したとしても、人間ドラマの部分やセリフの無い部分で反戦的なメッセージが含まれていることが往々にしてある。大抵の場合は自身が戦争体験者であるから、と言う傾向があり、だからこそ戦争のカッコいい部分も悲惨な部分も描けるという事であろう。彼らの作品には無思慮と同じくらい過信という反応を災いとして描く。〈さらば宇宙戦艦ヤマト〉では、この無思慮・過信への批判を機械への絶対的崇拝であるとか、力への崇拝に対して向けているといえる。

 

 

ヤマトは軍隊賛美か否か


 最後に、軍事ものを描いた場合によくある軍隊賛美を取り上げたい。
 〈さらば〉や〈ヤマト2〉は確かに同じストーリーの作品である。しかし、メッセージ性は前者の方が後者よりはるかに強い。物語としては、〈さらば〉の方が設定的なあらはあるにせよ、完成されている。教訓話的な意味合いが強く、グリム童話だとか聖書だとかの系統と同じである。
 一方で〈ヤマト2〉はウォーシミュレーションの傾向が強い。言い換えれば軍紀物的な性格であり、歴史を見るような感覚である。〈さらば〉に比べればメッセージ性は弱く、ラストの古代君の“演説”も取ってつけたようなレベル。(富山さんがもやもやした思いを抱きながらラストを演じていたという話があるが、ごもっともな事である)良く言えば、過信や無思慮で拡大政策を行った帝国がいかにして滅びるか、という実験とも。

 

 ゆえに、メッセージ性の低い〈ヤマト2〉ではなく、〈さらば〉からそのメッセージをくみ取りたいと思う。

 

 作中、ヤマトクルーはずっと愛について触れている。またテレサは破壊や征服に対しての否定を行い、憎悪であるとか利益であるとかによる戦闘すら否定しているといえるだろう。実際、古代の決意を見るまでは自身も最期以外は戦闘に参加しなかった。デスラー総統も最期は憎悪を捨て、征服よりも古代たちヤマトクルーの愛に期待して白色彗星の弱点を伝えた。これらは、戦争を放棄したと見える描写であり、その判断をした彼らを卑下したり軽んじる描写は一切ない。
 戦闘を行ったヤマトであるが――
 ヤマトクルーは誰一人として自暴自棄になって命を捨てた訳では無く、任務に殉じたのである。彼らの任務もいたずらに危険に突っ込んでいったわけでは無く、地球の危機を先んじて探査すべく発進し、地球艦隊壊滅後は唯一残った地球の盾として全力を尽くした。この作戦実行も確かに批判はあるだろうが、ヤマトクルー総勢114名と地球人類全体を比べた場合、クルーが生き残ったとして果たしてどれだけの意味があるか。何より民間人や所属勢力を守るのが軍人の第一義だ。彼らを扱う上で戦闘とは切り離せず、それをもって軍隊賛美と言うのは言いがかりと言える。そもそも論として、彼らは根性で戦ってきたが、彼らの描写を軍隊賛美としてしまうと、根性を見せる人間は全て軍隊賛美者になりかねない。もっといえば、軍紀を破って出撃したという時点で彼らは人間として合格としても、本来軍人失格だ。軍賛美であれば、この命令違反はあってはならない描写と言えよう。

 

 つまり、さらば宇宙戦艦ヤマト反戦のメッセージを強く含んだ作品と見る事が出来る。

 

 反戦のメッセージが必ずしも戦闘を否定することから発信できるとは限らない。

 最近、いい例が出て来たでは無いか。教育の現場で、子供たちを戦争から徹底的に遠ざけ、戦争を言うものを順序だてて否定するのではなく頭ごなしに否定した結果、反動で戦争を北方領土侵攻を経験した人生の先輩に対して戦争で取り返そうと持ち掛けてしまうアホな議員が誕生してしまった。


 戦争の何がいけないかといえば、それは立場で違う。

 納税者であれば、金のかかることをしてほしくはないし、負けたら全てを失うギャンブルに、国家が勝手に首を突っ込むことは看過できない。

 軍に家族を取られた立場であれば、戦争で万が一と言うより結構な確率で遺体で帰ってくる可能性があるのだから、普段の訓練だって危険なのに、戦争など考えただけでもぞっとするだろう。

 軍人だって気構えはあるだろうが、何かあった時に命を失うのは自分たちだから外交努力で解決してほしい、その“口後の備え”としての軍隊だと考えているだろう。少なくとも、自分自身や自分の生まれた国が戦争に参加してほしいと思う人間などそうはいない。

 これらの想定は、全て現実的な考え得る厭戦思考と言えるだろう。どれも戦争反対の合理的理由だと自信を持って言える。正直な所、正義だとか倫理観で戦争否定するというのはほとんどきれいごとで、正義や倫理を侵した存在への報復を否定=全ての戦争を否定する論拠にはならないだろう。むしろ、そういった相手に対して一歩も引かずに攻撃する根拠になってしまうのだ。

 どんな相手にも使える戦争反対の論拠とは極めて現実的で、情けなくて、誰しもが思う事つまり、殆どの人間が共感できることである必要が有る。

 


 戦争がいけない事であると教えるならば、順序だてて戦争のメリットデメリット双方を提示して自分でも探らせて、そして自分で答えを見つける。そういう戦争に対する教育でなければ自分から戦争の何が問題かを見付ける事などできやしない。そこまでやって、初めて平和教育と言えるだろう。

 

 ヤマトも同じ事である。ただ単に、軍事ものだから戦争を賛美している、だからダメだという短絡的な思考で〈さらば〉を語るのは正直、内容を全く見ていないのではないかと疑う。もっと言えば、ラストでは古代艦長自身が生きることの大切さを説いているため、またその判断をする苦しさを島航海班長を通して明確に描写しているため、特攻賛美と言うのも的外れと言って構わないだろう。
 ヤマトファンは別に本当に戦争がしたいというわけでは無い。フィクションだからこの艦が好き、この艦隊ならばあの艦隊を殲滅できるとか言っているだけであり、仮に自分でキャラや軍艦まで創作してしまった場合は多分、そのキャラが死なないように死なないように自然とストーリーを展開させてしまうしまうのではないだろうか。私はそうしてしまう傾向にある。


 良かれと思ってした余計な行動のせいで余計なスキーマ=固定概念を植え付けてしまう例は多い。教育であるとか他人を牽引する過程でそれは反動としてとんでもない事態を招く。さっきの某議員以外にも例は枚挙にいとまがない。
 マスコミが散々適当な流行やらを牽引してくれたおかげでいろんな人間が振り回され、一番被害が大きかったのは民主党政権樹立である。このトラウマは大きい。おかげで
【マスコミがなんか騒いでいる→マスコミが騒ぐという事は裏があということ→大したことないのに誰かの足を引っ張る為か、大問題を隠蔽しよとしているに違いない】
というスクリプトと変数によって“マスコミは売国奴の手先・マスコミに支援される野党は皆売国奴”というスキーマが形成されてしまっている。
 おかげでさすがに与党や政権のいくら何でもまずいだろうという行動――官邸の面会記録の不作成やら、経産省の記録廃棄であるとか、国民の同意無しの2島先行返還とか――も、「マスコミが叩いているのだから、きっと日本の為になる事。安倍さん頑張って」と本気で思っている人が出て気いる模様。

 

 〈事実〉を多数取り上げ、それに対して解釈を加えていくという仮定は誰もが簡単にできるというわけでは無く、私自身あんまり頭で考えない系なので、直ぐに乗せられてしまう。考えなくても答えが提供されればそれに乗っかれば満額点数がもらえるのだから、そっちを優先してしまう。
 ただ、一度疑問を持ってしまったり反感を持ってしまったら話はややこしくなる。

 仮に、意図的に見える〈事実〉の錯誤があればもう、それは隠蔽という〈真実〉にしか見えない。今まで持っていたスキーマが別のスキーマに置き換わっただけで本質的には進歩しておらず、危険性は一向に変わっていないのだが、本人は開眼したと思い込んでしまう。場合によっては以前より熱心に信じ込んでしまうかもしれない。となると、多分実害が出るまで、スキーマが入れ替わっていただけで自分で物事を解釈していたわけでは無いという事に気が付かないかもしれない。


 (これは単なる愚痴ですが、自分で考えろと言っておきながら、その問いは大抵発問であるという点も中々な弊害だろう。結局答えが用意されていて、他の答えや同じ回答でも導き出し方が異なると眉を顰められるというのもどうかと思う)
 

 話を戻すと――
〈さらば〉にせよ〈ヤマト2〉にせよ、確かに軍事モノである。

 人は死ぬし、国家が瓦解する。ただ、それは登場人物が楽しんでやっているわけでは無く、またキャストもプロとして本気で彼らに感情移入しているだけであって、破壊を好んでいるわけでは無い。ストーリーは命の尊さや愛の尊さを語り、これらを守るためにこそ戦うという選択をしているだけだ。また、テレサのような基本的に非暴力不服従な登場人物であるとか、兄にも等しい人物を敵地に置いていく・友を死地へと見送り自らは生き残るという選択をする登場人物が多数いた。下手をすれば、この、選択肢つらい選択と言えよう。この複数性は考慮に入れるべきである。
 ゆえに、〈さらば〉も〈ヤマト2〉も戦争を賛美しているわけでは無いと結論付けられる。ただ勇気を賛美しているだけであり、命の尊さや愛の尊さを賛美しているのである。


 最後に、ヤマトに限らず――
 どんなに戦争を否定しても避けようとしてもうまくいかない場合がある。最後まで戦争をしないという選択を取れるかどうかは、その時々であり踏ん張りどころだ。戦わないという選択肢が身を守る事もあろうが、戦うという選択肢以外身を守れない場合もある。
 一番肝心なのは恐怖に突き動かされて攻撃的な行動に移るのではなく、恐怖に打ち勝って冷静な行動をする事。その決定をするには命の危険もあるだろうし、戦争の危険もあるだろう。それでも最も妥当な選択肢を選ぶのが求められる事だ。
 初めから戦争をしてはいけないと手首を縛ってもかえって戦争に突入しやすくなることも想像しなければならない、戦争ありきで行動をして敗北して全てを失うわけにはいかない。戦争は命や尊厳、歴史や伝統、そしてプライドがかかわってくる。故に、幸いにも戦争からいくらか距離を置く事の出来ている日本でも真剣に、あらゆる可能性を考えなければならない。あらゆる可能性を検討して浮かび上がった選択肢の名からか、最も損失の少なく、最も生き残れる可能性の高い選択肢を選び出す事が最善策であり、取り得べき選択。それが戦争であった場合はもはや腹をくくるしかないが、大抵は戦争以外の選択肢が有力候補に挙がるし、それを願うのが当然だろう。

 

 戦争を前提とした交渉や想定など、むしろ実際に戦争になった場合は足かせになるだろう。だって、ずっと煽って来たのにいざ戦争になって負けはじめたら勝つまで終わらせられないし、勝っても国際社会を納得させなければ元の木阿弥。意外と、戦争って騒いでいる人たちが思うほど簡単には起きないし、簡単には終わらせられない。

 戦争は、本気で思考実験すると大抵は損益の方が大きい。戦闘・外交・内政全てに気を配らねばらならいし、特に日本のような疑似超大国ならば不安定感抜群。

 まかり間違っても本気で戦争しようなどと言ってはいけないし、威勢のいいことを言っている人に流されてはいけない。