旧作ヤマト考察協会

第一作から完結編まで、旧作宇宙戦艦ヤマトを出来る範囲で現実的に考察するブログです。

大艦巨砲主義対航空主兵論① 大艦巨砲主義とは?

 

 

 

 戦艦、あるいは大艦巨砲主義は本当に航空機によって廃れたのか、実は別な理由があるのではないのか――検証したいと思う。

 だってヤマトばかりだとすぐにネタ切れしかねないし、史実の中でもそれってどうなのよって話もなくはない。

 それにこのブログはかなりの頻度で史実にあった、ヤマトの描写と類似する事例を孫引きしているわけです。ここにも考察を加えないと、片手落ちになって話が完成しませんから。

 


 大艦巨砲主義とは、大きな艦体に大きな砲を載せるという極めて単純な火力至上な思考の元に進められた設計傾向である。

 ざっくりまとめると、「あの艦級を潰すため」であるとか、「あの海軍に負けないように」というような理由で各国海軍は出来るだけ大型の艦砲を載せようとした。つまり、大型火砲の安定的な射撃プラットホームを求めた結果、艦体も大型化していったという事である

 


 よく言われる大和だが、実は大艦巨砲主義主義といのは実体に相応しくなく、性能的には(←ここ重要)むしろハッシュ・ハッシュ・クルーザーに近かったりする

 

 ハッシュ・ハッシュ・クルーザーバルト海侵攻のために巨砲で上陸部隊を支援し、自身は敵に遭遇したら適当に巨砲をぶっ放してさっさと逃げるというコンセプトの軽巡洋艦。とにかく巨砲を乗っけて高速を出すことが至上命題であり、艦体スペックはそのためだけの設計。だからスゴイ箱に大きな砲を載せた、などという事はない。だから結局使い物にならず、空母に改装される羽目になったのだ。


 一方大和は他戦艦と共に戦列を成し、敵戦闘艦隊と正面切って戦うための戦闘艦である。アウトレンジ戦法の為に巨砲を載せて、自らを安全圏に置いて戦う事が優先的課題。また、装甲が紙てあってはお話にならない。旧世代より船足が遅いのはお話にならないが、だからと言って空母や駆逐艦レベルの高速は特に必要ではない。といったような要求の中で、艦体や艦橋までも無理なく切り詰めた結果があの艦影である。より大型の戦艦の建造を予定しているため、大和はその第一世代というかプロトタイプという側面のある。

 というと大艦巨砲主義の権化の様になるのだが、忘れないでほしいのは、大和は艦体も艦橋も出来るだけ小型になる様に設計された事つまり、大型化とは反対の傾向で設計された艦ハッシュ・ハッシュ・クルーザーと底流で、必要最低限な艦体で出来るだけ巨大な艦砲を載せようという点が共通しているのだ

 だって当時の日本じゃ、あんまり大きな艦だと整備できないもの。まして前線で整備が出来るはずがない。建造にも修繕にも回収にも資材を大量に投じなければならないし。大きい事は必ずしもいい事ではない。

 

 大和は巨砲主義ではあるが、出来るだけ小型の艦体にこだわったという点において大艦からは外れるのである。アイオワ級も「パナマ運河を通行できるように」という至上命題があったため、意外と似たようなものである。

 

 

 では、真の大艦巨砲主義とは何か。
 ナチス・ドイツZ計画、H級戦艦であろう。とにかく巨大な砲を、と実に頭の悪い方針を示したヒトラーのおかげで設計されたあまりにアレで突っ込み様の無い戦艦だ。 

 H45に至っては一体何と戦うつもりなのか(何で魚雷発射管を装備しているんでしょうね)意味不明。この戦艦は出来るだけででかい巨砲を、ドックのスペックやらを気にせずに大型化していって、高速の為に機関を積み込んで余計に大型化して――という大艦巨砲主義のバカらしい面の頂点に位置する。

 


 振り返って戦艦とは何か。
 これは意外に難しい。

 

 

 戦艦とは――その抽象的意味合い

 戦艦と言えば、主力艦というのが一般的な考えと言えるだろう。厳密には戦艦では無い装甲艦も、一種戦艦のようなイメージを仮託される。

 主力艦という意味であれば、古来より一度も一定したことがない。

 


 快速の単層ガレーであるとか、突破力の三段櫂船。火砲の登場に伴いガリアス、ガレアス、戦列艦蒸気機関の発達により装甲艦が現れ、いわゆる戦艦が登場。次いで空母が現れ、原子力潜水艦が現れ、イージス艦が現れ結局国の規模や戦略によって主力艦として目される艦種はまちまちである。


 戦艦を大火力を有する戦闘艦として定義づけするのであれば、それこそハッシュ・ハッシュ・クルーザーや初代カイオ・ドゥイリオ級などはマジェスティック級以降のいわゆる戦艦からすれば総合力は恐ろしいほどに見劣りをする。が、口径だけ言えば圧倒している。後者は装甲だって(質の違いがあれど)そう見劣りするものではない。定義によっては、後者は第一級の戦艦という評価に丸め込むこともできる。


 前弩級戦艦弩級戦艦以降の戦艦もまた、性質が違う。
 前者は発展途上であるものの、砲戦相手や距離は大して想定に違いはないものの、各国の事情により様々な海域を想定した艦形の違いによってそれぞれの性格を異にする。後者以降の戦艦は単一巨砲の火力集中させる方向に差――つまり、武装配置には大きな差があるものの、各国において艦形の差というのは意外と小さい。しかも、各国の事情に寄らず流行というものがあったりするから難しい。


 もし定義として「中程度の速力と装甲を有し多数の火砲を以て戦列を組み、敵と対峙する」とした場合、多くの単に巨砲を積んだだけのモニター艦や特殊な戦闘艦を除外できる。当然、巡洋戦艦や一部機能をリダクションした条約型戦艦なんかも除外できよう。また、戦列艦からの流れをくむ戦闘艦としての性格も、反映できるのではないか――と個人的に思うのでいかがでしょう。

 


 さて……そう考えると、戦艦は実は大艦巨砲主義である必要が有るとは思えなくなる。つーか、直接敵艦と砲火を交える事を目的とするならば、別に巨砲である必要はない。敵の砲火に耐えつつ、想定した砲戦距離において想定以上の速射性を見せる事こそが必要とされる。
 もっと言えば、大艦巨砲主義は先ほど名前を出した条約型戦艦(新戦艦)の登場により、いったん区切りがついている。区切りを付けなかったのは日本とアメリカであり、しかも双方ともに艦体の大きさというものにはかなり気を配っている。

 


 大艦巨砲主義とは結局なんであったのか。

 日露戦争に起点を見出せるだろう。


 日露戦争以降、装甲艦が艦砲によって撃沈せしめることが可能であることが判明した。反対に言えば、装甲が艦砲に耐えられない可能性が高いという事である。これらはおのずと、艦砲の巨大化に向かう要因となった。
 大口径火砲は当然、遠くまで届く、近い距離でもその運動エネルギーや重量によって貫通が見込める。巨大火砲を積み込むには、安定のために当然艦体が大きくなければならない。一隻で大戦力になるが、一隻が沈めばそれだけで大損失になる為、装甲は許される限り張り付けたい。そうなると、余計大型化する。艦砲を巨大化しても、相手も巨大化してはアドバンテージを失ってしまい無意味になる。自国の戦艦の主砲が相手の戦艦の主砲より小さいとなれば、むしろマイナスである。相手が大型化するならば自国の戦艦も大型化せねばならない。


 というようなスパイラルによって大艦巨砲主義は助長され、確立されていったのである。残念ながら、この設計思想にはあまり頭を使った運用の前提がなされていない。相手と同等以上の火力が必要というのは当然であるが、武装配置であるとか速力であるとか装甲帯の配置であるとか、戦術であるとか色々考えるべきことはたくさんあったのだが……忘れられていたに近い。バランスをとるという意味では、砲を小さくして余裕を持たせるという案が提示された艦級はいくつもある。しかし、隣国の新造戦艦に引きずられる形で砲が決定されていった。

 


 条件がガバガバなおかげで幅の広くなっている大艦巨砲主義という考え方に、適切な呼び方を提案するならば――対隣国優越主義であろうか。

 この呼び方であれば大和もアイオワビスマルクもあらかた大艦巨砲なイメージの戦艦を内包可能である。通常大艦巨砲主義には入らない古い方のカイオ・ドゥイリオもこのカテゴライズに入るだろう。

 否定的なニュアンスで語れば、技術のあだ花、直情的方針としてのイメージも同時に論に持たせられる。肯定的なニュアンスであれば非大艦巨砲主義的側面を強調すればそれで先進性や同時代の様相を語れる。中立であれば――そもそもこんなレッテル貼りは必要ない。

 

 

 結局のところ、条約という枷の抜け穴であるエスカレーター条項を組み込んだ新戦艦こそ、本来その国の海軍が求めていた戦艦ではないだろうか。

 つまるところ、厳密な意味での大艦巨砲主義は技術の進歩によるあだ花、偏った方針によるバグという奴ではないのだろうか