旧作ヤマト考察協会

第一作から完結編まで、旧作宇宙戦艦ヤマトを出来る範囲で現実的に考察するブログです。

2202の真面目な考察Ⅴ ストーリー全般+愚痴

 

 

 ストーリー全般について、幾つかの要素を取り上げて考察を行いたいと思う。当然旧作との比較を用い、新規性であるとか合理性であるとかをよりわかりやすく効果的に考察したい。つまり、当該設定にリアリティがあるのかや、合理的なのか否かであるとかの点に焦点を当てたいという事である。

 

 

 ストーリーの変更点

 1、人造人間か否か

 これは非常に大きい。もう、ガトランティスが根本的に違う。旧作は人間のエゴの発達や進化の過程で現れた到達点としての外見的な姿リメイクはエゴの発達や進化の過程で現れた到達点の内省的な姿といったところか。

 文庫本版でのみ展開された変なストーリーだとこのガトランティス人造人間説が危うく飛び出しそうだったが、それをマジにやるとは思わなかった。他方で、古代宇宙飛行士説などにある様に人類が別の人類を想像するというのは空虚な話ではなく、人類の行動としてやりかねない事だし、哲学的深みを与えうる新しい試みであることは間違いない

 タイプ・ズォーダーがどこか人類と自身の差であるとかについて色々と考え込んでいることを鑑みると、大方のクローン・トルーパーよりマトモな存在というかより人間らしい側面が出ている。人造人間という設定は純粋な新機軸化といえば、先ほど述べたように二番煎じな感があるが、それはそれで作品の価値を下げることにはならないだろう。福井大先生がガトランティスを国家として描きたくなかった、だからあんな感じに纏めた――などとあれこれのたまっておられたが、まあ、それはそれ。塞翁が馬という所。

 うまくストーリーを膨らませられれば単なるドンバチSFとは違った深い作品に出来たかもしれなかった。ただ、タイプ・ズォーダーのレギュレイス様的能力は蛇足・二番煎じもいいとこ、組み込むべきでは無かった。組み込んでストーリーに寄与した事は何一つなかった。

 結局2202は悪い意味で旧作をなぞってしまい、人造人間設定は独自性ではなく独自性の無さを際立たせてしまった。

 

 2、古代周辺の人間模様

 全員が猛烈に葛藤にまみれ、ストーリーの本筋とは関係ない部分まで葛藤。酷い例になると、ストーリーの展開にまで影響をもたらしている。これは旧作にはほとんどなかった事で、見る人の好き好きという事になるだろう。

 

 旧作においては地球もガトランティスも同じ人間であるという事実に対し、争う事の虚しさを感じてはいたもののガトランティスが明確に征服を掲げた帝国主義である為これが葛藤までには至らなかった

 強いて言えば葛藤していたのはデスラー総統ぐらいだろうか。

 

 2202においては一番物凄い葛藤というか、女々しい感じのあったのは古代君だろう。古代自身が波動砲を撃つ撃たないでストーリーの1/4ぐらいのボリュームを占めてしまっていて、非常に鬱陶しい。他人の命を巻き込んでまで葛藤するのはやめようか。また、軍人なのだから一定程度人を殺す事に対して――悩むんだったら2199の時点で悩めよ。雪の「救ったぞぉ~」は気持ち悪い。

 加藤隊長に関してはそもそもあんな葛藤をさせる必要はなかったし、遊星爆弾症候群とかいう病気が存在していると、いくら政治マターで処理されたとしてもガミラスとの同盟にひびが入ってしかるべき。となると色々まずい問題が――これは結局捨て置かれ、突然ガトランティスからもたらされた治療薬で全部チャラな感がある。これはご都合主義もいいところ

 2199で悪者にされたデスラー総統が立派な為政者として描かれたのは興味深い。が、第二バレラスを落とす理由が平和ボケから目を覚まさせる的なものだったのは閉口してしまう。自分の民を殺して――あんたはカリスマなのに、国民の説得もできないのか。副監督のツイートや支持政党やらを勘案すると、何となくこのストーリー展開にGOをしてしまいそうだが、私のような臣民側でしか物事を考えられない人間からすればはた迷惑というか、合理性が微塵もない。また、甥っ子に関しても結局何がやりたかったのかもいまいちわからなかったし、もっと言えば戦死させる必要もなかった。

 

 女性のみの部隊というのは、これは新機軸。が、ムサシが女性だけで運用され、それが子供を産むことを期待された――というのはオジサン好みの気持ち悪いエロ漫画な雰囲気が匂ってどうかと思う私もオジサンみたいなもんだから発想に至る経緯は分からんでもないが)。2199でガミラスレディーの親衛隊をアベルト君がかこっていたのが「お前はカダフィか!!」という感じでどうなんだろうというシーンがあったから、2202だけの問題ではないか。

 旧作においては女性部隊は大規模戦闘では役に立たないからなのか死なれちゃ困るからなのかは微妙なラインだが、一応戦闘に参加させるべきではないと内地に帰還させられた。それを考えると――そもそも現代においてであるとか、2199の時点で多数の女性戦闘員が活躍していた為、これはその延長線なのだろう。

 

 3、演出効果の高い描写

 巨大艦隊の登場。当然、旧作はアニメーターの物理的気力的限界から数百隻が限界だっただろう。元が世界大戦時の海軍をベースにしたような話であるから、数万隻の巨大艦隊の必要性は多分考えることもなかっただろう。

 しかし、数万隻の戦闘艦が埋め尽くすシーンは銀英伝を見ても見栄えのするシーンであることは間違いない。くしくも銀英伝もヤマトと近いタイミングでリメイクを開始したため、否が応でも製作陣は意識しただろう。数には数で対抗というのもわからないではない。が、根拠のない大艦隊というのは――これはむしろ2202を薄っぺらい作品にしてしまった大きな要因の一つとなってしまった

 

 古代の一人活躍、キャッチーなフレーズのセリフの投入、総動員・総力戦な戦闘。人造人間対人間、機械対人間の対立。武力による平和と、信念による平和。次元断層とガミラスとの同盟、波動砲艦隊。

 たくさんの要素をつぎ込み、次から次へと佳境を生み、それが物語としての展開であったり戦闘であったりとテンポを生んで話を終局まで繋げた。よかったかどうかは微妙なラインで、私なんかはやるべきでは無かった派。

 

 4、新しい艦艇の登場

 2199では旧作登場艦に加えて新しい独自の艦が登場した。まあ、旧作に新しい艦艇を登場させるのはタイムマシーンでも無ければ無理。

 2202では小林大先生の手による素晴らしいメカの数々がヤマトのそれまでのデザインのアウトラインをぶち壊して画面をちぐはぐにしてくれた。全部頭でっかちの達磨みたいなメカばかりで、それを登場させるための演出ではないのか、展開ではないのかと疑惑を持たれるようなシーンが多かった。

 しかも合理性やデザイン自体の運用が可能かどうかの数値の設定の失敗など、そんなところで旧作をオマージュする必要はないのに……。

 

 

 結論

 結論としては、さらば宇宙戦艦ヤマト―愛の戦士たち―やヤマト2のリメイク作としては完全に落第。中途半端にヤマトの金看板を背負ったおかげで自分の手に枷を嵌めてしまった為自由度が下がり、結果一個のSF作品としても正直不満の残る作品になってしまった。

 何と評せばよいか、副監督と脚本家が後先考えずに「良かれと思って」やりたい事を全部ぶち込み、結果的に全てが「よからぬこと」になってしまったという所がある2199もどうにも故西崎義展プロデューサーへの恨みとも思われるような意味のない設定変更が多数見られた。それを踏襲してか、2202でも前作の設定を微塵も顧みないような展開が頻出し、描写に多数の矛盾が生じてしまった。ストーリー前半は前作に喧嘩を売ったような展開が目立ち、後半はヤバいとでも思ったのか急に脈絡なく前作に登場したキャラや艦を突如として投入という豹変。挙句ファンとの口論やファンへの一種の侮辱的態度であるとか、まあ……とんでもない裏方の騒動を展開してくれた。ここも旧作へのオマージュだろうか。

 要点をまとめると、旧作の踏襲してほしくなかった好意的に見なければ説明の出来ないご都合主義を展開し、当然踏襲する必要のない製作陣内部の内ゲバだの嫉妬だのまで踏襲してしまった。結果、旧作で話が取っ散らかった際に多くのファンが失望したように、2202でも結局何だったのかと多くのファンがヤマトというコンテンツに失望してしまった。

 

 穏健な例え方をすると、ザ・ピ―ナッツ版〈モスラの歌〉と1992版〈モスラの歌〉の内容の違いがファンの間で地味に論争を巻き起こしたような物。大いなる力を敬い畏れるか、母なる力に救いを求めるかの違いといってしまえば簡単だが、これはマニアにとっては心情的にややこしい。モスラ自身は別にして、人間側のモスラへの認識が全く本質的に異なる――人間側の態度がこれでいいのか、という話。

 これは、日本版とアメリカ版のゴジラとの関係の根本的な違いより結構影響が大きい。こちらはゴジラとの関係を本質に組み込むかで見方が異なるが、それ以外の点は調和を旨とし好意には好意、勇気には勇気をもって応えるという本質を割に捉えていたりするから監督もマニアック。人間側もモスラがまさか無条件に人間の味方とは思っていないようなので、これは昭和モスラと人間の関係に割と近い。全体としてこの違いは、これは旧作におけるさらばとヤマト2の違いに近いといえるだろう。

 

 何に焦点を置くかによって箸にも棒にも掛からぬか、傑作か、頑張ったが裏目に出たのかの評価が異なる。

 

 

 全くヤマトとは関係のない、有名SFクリエイターが集まった全く新しいネット配信のアニメシリーズとして完成させられれば、これは好評を集めた可能性が高い。

 絶妙にいろんなSF作品のオマージュ的側面と、演出として抜群の効果を展開できる製作陣が、ヤマトではない自由な環境で福井ワールドや小林世界を展開すれば、小林氏が一番嫌う批判をふるいにかけるように第一段階で取り払った上で、望む評価を得られただろう。わざわざツイッターをブロックすることなどせずに。福井氏だって自分の作品なら自由に話を展開し、空母いぶきのそれのように批判を浴びることもなかった。

 結果、2202は一体誰を幸せにしたのか疑問。製作陣も2202と同じようなノリで制作に当たったのか他の場面で散々批判され、旧作ファンは私のようにぶち切れ。2199ファンもまたぶち切れ、一部のファンや2202がファーストコンタクトなファンのみが残った――ものの、どうにも2205でこの路線が継承されるかはアレな展開で、そうなると2199系路線に修正したならば2202のファンも不満が残る展開になりかねない。

 

 

 最後に、単純に2202が面白くなかった事が非常に大きく、だからこと当ブログでは取り扱わない予定だったが――思い返しても土方艦長役を務めておられた石塚運昇さんの訃報に際しての小林のツイートの……まあ、だったら徹底的に批判してやろうか。と今回取り上げることにした。

 真面目な話、石塚さんを追悼するために視聴すべき作品ならば、同じSFアニメではOVA銀河英雄伝説があげられるだろう。旧作において、トリューニヒトの設定にあった「俳優のような声」は、まさに石塚さんの配役を待っていたようなもの。また、ジョジョの奇妙な冒険〉の第3部も外せない。老ジョセフ役を若ジョセフ役の杉田さんと共にゲームとアニメ両方で長年勤めておられた。実写吹き替えならばほぼCSIマイアミ〉シリーズ一択だろう、異論は認めるが。ただ、チーフの日本語版のイメージを作り上げたのは他ならぬ石塚さんであり、彼のアイディアと演技が非常に大きく貢献した事は間違いない。

 2202において土方艦長は出番が多いわりに2199以上に言葉数が少ない。はっきり言って2202の土方艦長は石塚さんの真骨頂を味わえる役柄には――仕上がっていなかった。それを考えてみても、どう考えても小林氏のツイートは疑問中の疑問、自己中心中の自己中心。ああいう人がアニメ作ってるんだなと思うと残念というか……呆れる。

 

 まあ、出渕氏だかにあの人にデザイン任せると団子になるとか散々言われているそうだから、必ずしも“信仰”を集めているわけでは無い模様。非SFファンやプラモを作らない人からすれば、やっぱりこの人も変人の類に分類されるようで、ある意味溜飲が下がった(飲食店で塗装を始めた事件の話)――という事を追記